ジャズ詩大全
やっとジャズ詩大全20が出版の運びとなりました。3月1日に都内の主な書店に出てきて、3日ぐらいまでには、全国の書店にも行きわたるでしょう。書き上げたのが昨年の7月あたりで秋には出版の予定でしたから、結局半年遅れです。まあ今としてはこれで普通なんでしょう、待ち望んでいた方にはご迷惑をかけましたが。それでも僕自身は20巻はいったい書けるんだろうか、出せるんだろうかなんてずっと思っていましたから、これでホッと一安心です。1巻を出したのが1990年ですので、計22冊に20年かかった勘定です。途中何度もやめようと思いました。やめないで最後まできた(まだ続けてくれという声はあちこちで耳にしますが)のが不思議なくらいです。
このあともう一冊、別巻扱いですが、索引集を出そうと考えています。各巻についている索引は、頁数に限りがあるので、ほんの少々の簡略版でしかありません。そこで全巻を通しての索引を出さなければならないのですが、全巻索引はとてつもない膨大な量になるので、これも出したとしてもやはりある程度は必要、重要項目に絞った簡略版になります。それでもかなりぶ厚い索引集になると思います。そしてそれだけではなにか魅力に欠けるので、索引集におまけとして僕自身のジャズ詩大全校了記とでも言うんでしょうか、後書きとか感想をつけようと考えています。ジャズ詩大全を書いていて苦労したことや感じたこと、また本には書けなかった僕自身の感想、印象のようなものです。そんなことでさえ悉く書いていけばまたかなりの量になるので、いったいどの程度のものにすべきか、それもまだ検討中です。
アメリカのネットでジャズ・スタンダード曲について調べたりしていると今は結構稚拙でひどい記述にぶつかりますが、それはスタンダード曲に関する事象はすべて1950年代くらいまでのもので、それらを演奏したり歌ったりしているレコードも新しくても60、70年代くらいまでのものがほとんどで、いずれにしてももうすべてが4、50年以前の話しになります。そしてネットに書き込みをしたり編集したりしている人たちは、ほとんどがそれ以後に生れ育ってきた世代なんでしょう。ですから作曲家、作詞家、演奏者、歌手の人名の綴りもしばしば違っていますし、映画やミュージカルへの言及も間違っていたりします。彼らはなにも知らないんでしょう。なにもかも遠くなりにけりです。日本でも今は有名なジャズ歌手が有名なスタンダード曲を歌って、その感想に「初めてこの曲を聴いたのは××のTVコマーシャルでした」なんてマイクで言います。僕は内心がっくりきますね。映画でもミュージカルでも有名なLPでも隣の局がクロスしてくるボロッちいトランジスタ・ラジオで聴く深夜放送でもなく、TVコマーシャルです。
逆に言えば、今の人たちは可哀想です。ジャズのいい曲や演奏、歌を聴くのに、TVコマーシャルしかないからです。昔はラジオでもジャズは多く聴けましたし、ときにはTVでもジャズ番組がありました。カナダのジーン・リーズGene Leezという音楽評論家が言ってましたが、昔はラジオでジャズからクラシックから、シャンソンやカンツォーネやラテン音楽など世界中の音楽をたくさん聴けて、子供が育ってくるときに自然にそれらの音楽的教養を身につけることができたが、最近の子供はTVコマーシャルでもコンピューター・ゲームでも駅のアナウンスでもあまり変わらないガラクタ電子音楽しか聴けないから、音楽的教養を身につける場所がまったくない、と言うんです。今はまさにそういう時代です。ならばファーラウトに来て、まずは生の音楽のなかに身を置きましょう。
ファーラウト3/2010のスケジュール案内より
ジャズ詩大全を書き始めたのは1990年のことでした。それまで英詩解釈講座なんていうタイトルで小さな教室を開いて、英詩の勉強会みたいなことをときどきやっていたんです。それは歌手のマンションの一室を借りてやったり、クラブの昼間を使わせてもらったりで、細ぼそとやっていました。生徒が一人も来ないなんてこともよくありましたから、料金を払ってどこかの部屋を借りてやる余裕はなかったんです。
あるとき知り合いが出版社の社長を紹介するというので、音楽関係の洋書を5冊ぐらいもって会いに行きました。僕はそのなかのどれかを翻訳出版したかったので、そういう出版社を探していました。その社長さんは吉開(よしかい)さんという方で、九州の人でした。家が神主で、吉(きち)を開くというお名前です。凄い名前ですね。それで僕の吉が開いたと言えるかどうかは微妙ですけど、そうとっておくべきかもしれません。彼はもっていった洋書に無関心ではなかったものの、パラパラとやって検討しましょうなんていう無難な返事をくれました。そのとき僕は、自分で作ってもっていた手製の英詩解釈講座のパンフレットをそばに置いていたんです。彼はそれに目をやり、それはなんですか、と訊いてきました。
それでなにげなく、僕はそれについて一通り説明しました。あまり力は入りませんでした。英詩解釈講座は何度かやめようと思い、実際にやめたりし、また再開したりしてやっていましたが、とにかく儲からないし、ときには損をすることもあるうえに、なによりも時間がおしいです。彼が英詩解釈講座に興味を示したときも、僕はなにも感じませんでした。ところが彼はこれを本にしたらどうかと言い出したんです。僕は笑って、無理でしょうね、とそっけなく答えました。著作権など制約が多いし、第一そんなに売れないだろうし、労多くして益するところ寡少で、まあやめといた方がいいでしょう、なんて僕は言ったと思います。でも社長はひきませんでした。彼はその道のヴェテランで、出版のことには精通しています。しかもジャズや音楽関係の書物の専門家です。やめといた方がいいでしょう、なんてなんと失礼なことを僕は言ったんでしょう! いま思うと少し恥ずかしいです。
彼はひくどころか大いに乗り気で、結局そこから「ジャズ詩大全」なるものが実現することになったんです。タイトルを決める段階でいろいろなものが出されました。「英詩解釈講座」も一つの候補でした。でも彼がなかなか納得しません。僕はイギリスの釣りの本でThe Complete Anglerというのを思い出し、それを訳した昭和の初めか大正くらいの本のタイトルは「釣魚大全(ちょうぎょたいぜん)」というものでした。「大全(たいぜん)」は古くからある立派な日本語で、あるテーマを完璧に解釈、解説した本という意味です。全集という言葉に大をつけたものではありません。大全集といういい方はありますけど、「大全(たいぜん)」とは関係ありません。従って「大全」は必ず「たいぜん」と読まなければならず、だいぜんではありません。でも今の日本人は10人中9人ぐらいがこれを「たいぜん」とは読めませんね。僕は「ジャズ詩大全」はどうかと提案しました。やや大げさすぎて、僕自身はあまり乗り気ではなかったです。しかも僕はタイトルなどどうでもよく、出版できればそれでよしとしか考えていませんでした。吉開さんはこれに飛びついてきました。彼の古臭さと商売感覚とにピッタリ合ったんでしょう。こうして僕自身が考えてもいなかった「ジャズ詩大全」が誕生しました。
ジャズ詩大全については、僕自身が考えてもいなかった意図してなかった結果、効果が、あんがいどこまでもつきまとっている気がします。ちょっと不思議なんですがそうなんです。英詩解釈講座は正直に言えば金儲けが動機で始めたんですが、もちろん金儲けにはならず、ほんの雀の涙ほどの生計の足しでした。それで今度はジャズ詩大全を始めましたが、これも金儲けが動機で始め、やはり金儲けにはならず、雀が鳩になったぐらいでした。最初のうちは張り切って書いてました。参考書は日本ではなかなか手に入らないので、それが一番苦労した点です。ナット・シャピーロウの《Popular Music》という年代記のような本がありまして、どうしてもこれが必要なので、あるとき伊勢佐木町の有隣堂から取り寄せてもらいました。1900-1919、1930年代、1950年代、1960-64、1965-1969の計5冊(あとは在庫切れ)を注文し、2、3ヶ月かかって届いたので取りに行きました。驚くなかれ、1冊19,800円です。1万円以上の本は何度も買っていますが、これはいままでで最高額ですし、こんなものを一度に5冊買ったのも記録です。売り場の女性店員が「1冊1,980円です」などとぬかしおって、コノヤロー、ムカッーときましたが「よく見てよ!」と言い、「あ、え、えー、い、い、1万・・・」という具合でした。計99,000円、目から火が出そうな高熱状態で払いました。
洋書店は有隣堂と青山と丸善と銀座のイエナを巡っていましたが、イエナが映画や音楽やアートなどは一番よく揃えていたので、イエナへ行くことが多かったです。と言っても一回行くと10冊、20冊と買ってしまうので、お金がない身としてはそうそうは行けず、数ヶ月に一度くらいでした。どっちにしろ買うときは血の出るような思いで買いますから、買って帰るときは嬉しいような悲しいような複雑な思いでしたね。イエナもものによってはかなり高かったです。20ドルの本が安くて3500円くらい、高ければ4000円、5000円、あるいはそれ以上です。元の定価のドルと売値の円と計算してあまり高くないものを買いました。90年代の10年くらいは、本当に僕はイエナのいい客だったと思います。
さてジャズ詩大全は、5巻くらいまではかなり一所懸命に書いていました。そのあと6巻から9巻くらいまでは、いろいろな理由が重なって、あまり気が入っていません。自分でこういうことを言うのもひどいですが、これが正直なところです。その間《スポーツ精神》だとか《ティ・フォー・トゥー物語》などのほかの本を書いていたことも影響しています。それが10巻あたりからまた少し気が入ってきます。それは自分のもっている資料が増えてきて、書きやすくなっていったことが関係しています。資料が増えてくる背景には、90年代の終わり頃からインターネットが普及してきたことがあります。具体的には、インターネットの普及でアメリカから直接古本を買えるようになってきたことです。ある本を古本サイトで検索し、それを見つけてクリックすると、アメリカ全土の古本屋から在庫がリストアップされ、値段順に並べられ(たいていは一番やすいものを買います)、カード払いで買い、当時は船便があってそれが1冊につき3〜5ドルくらいの送料で入手できました。それで僕はBarnes and Noble(のちにはAlibrisも)という古本屋サイトで古本を始終買っていました。そういう本は、たとえばアメリカの全土からBarnes and Nobleのニュージャーズィの本社だか支社だかに集められ、一括して船便で送られてきたんです。そういう荷は早くても1ヶ月半くらい、遅いものでは3ヶ月ぐらいかかりました。というわけでその頃わが家には常時、ほぼ定期的に段ボールの箱にぎっしり詰められた洋書が届けられていました。
僕は本をたくさん抱えてきました。いつもいつも本の多さは僕にとって悩みの種でした。もちろんレコードも多いです。最近は買うのを控え、滅多に買わなくなりましたが、それでもLPレコード900枚、CD1300枚、カセット900本くらいはあります。ヴィデオ類もすごい数です。それに本。本は何回もおおはばに処分してきましたが、それでも多く、いったい何冊あるのかもう判りません。勘定する気にもなりません。日本語の本はもう15年くらい前からまったく買わなくなりました。洋書も5年くらい前から買うまいと決めてやってきてはいるんですが、やはりなにかいいものがあると買ってしまいます。今年になってからもアメリカに住んでいる娘に送ってもらうやり方で、50冊ぐらい買っています。そのほかに日本のアマゾンでもタップリと買っています。そんなに買っても読む量は限られていて、買った本の2割も読めればいい方でしょう。収集とか蒐集というのはだいたいバカのやることです。内容に興味のない奴が、見た目だけでものを集めるような病です。愚かでみっともない、やらずもがなの悪癖です。
ところでインターネットの普及は、世界の壁を取り払ってしまい、距離を近づけてしまいました。それは同時に時間をも短縮したのかもしれません。つまり船便がなくなり、いまは航空便だけになってしまいました。それでBarnes and Nobleでは1冊3〜5ドルくらいの送料で買えたものが、1週間ぐらいですぐに届くものの、最近では1冊20ドルくらいに一気に上がってしまいました。2ドルの古本を買うのに20ドルの送料を払う、いまはそんな時代です。でもそのおかげで古本はおいそれとは買えなくなりました。アマゾンが送料をタダにする購入額を99ドルから49ドルに下げたときは全米のニューズで流れましたけど、日本に乗りこんできて、いまはなんとそれが1500円です。アメリカから1500円の重い分厚い本を買っても、その本のあるところからアマゾンの拠点(フロリダでしたか)まで運び、さらにチャーター機で日本まで運び、ウチまで配達してくれて、その三つの送料がタダという恐るべき戦略です。ほかの本屋が勝てないのは言うまでもありません。イエナに行くと店内にいつも人がびっしり埋まっていたのが、誰もいなくて僕ともう一人くらいなんてことが二回ほどあったのはたしか7年くらい前でした。次に行ったときはもう閉まっていて、50年の歴史に幕を閉じたと貼り紙がしてありました。アマゾンは本屋やCD屋をなんと多く潰したことでしょう。そしてそれ以来なんと多くの本を僕はアマゾン経由で買ってきたことでしょう。自分ながら呆れます。
ただとにかくこのジャズ詩大全のためにこそ、1997、8年あたりから、僕はジャズや作曲家、作詞家、ミュージカル、映画関係の書物(たいていは古い絶版ものですが)を、買いあさってきました。おかげで僕にとっては夢のような素晴らしい資料が次から次へと揃っていきました。それに要したお金は大変な額になるでしょうが、まあ背に腹は代えられず、仕方がありません。それで最近は、ウチの中が洋書だらけで動きが取れなくなってきたのと、それら資料をどの程度読めるか、どの程度使いこなせるか、という点に問題は移ってきました。本もレコードも同じようなもんで、いくらたくさん買っても読めないですし聴けません。CD類は1時間弱で聴けますから聴くことはできますが、本当に隅々までくまなく聴くにはやはり何度も聴き、ときには楽譜に書き取ったりしなければならないですね。
本は読むには時間がかかり、しかも英語でなかには歯が立たないくらい難しいものもあります。でも買った以上は読みたいですから、最近は東京方面へ行くときは電車で行くようにして、往復の時間で本を読んでいます。いやそんなことはどうでもいいです。ジャズ詩大全シリーズは、12、13巻あたりから、かなり内容が精密になって充実してきます。それはなによりもこれら豊富になって揃ってきた資料のおかげです。アーヴィング・バーリン曲集別巻のときは、バーリンの分厚い伝記を5冊ぐらい買いましたから、結果としてこの別巻はやや厚い巻になりました。クリスマス曲集別巻の改訂版も、50曲も網羅して、さらに分厚く精密なものになりました。でもこの僕の裏側での苦労を本当に判ってくれる人は少ないです。
ジャズクラブ/ファーラウトを開店してから英詩解釈講座を月に2回やり、生徒があまり来ないので途中で1回にし、それでもなんとか続けていたんですが、生徒が一人も来ないことも多くなり、とうとうそれもやめました。なにせ生徒が来ないですし、来てもその講座の内容がお粗末で、退屈至極です。ジャズ詩大全に書いてないようなことを、鋭くグサッと質問してくるような生徒は全くいません。丁寧に講座をやっても反応があまりないですし、彼らがとくにありがたみを感じているようにも見えません。そして僕自身もたいていは苦痛です。それでもうやめるしかなくなりました。<私もいつもあの英詩解釈講座に行きたいと思っています>なんて僕に話しかける人は多いですが、そういう人はみんな、あのレッスンには生徒が殺到していて、いつも20、30人は来て活況を呈していると思っているようでした。<いつも行きたいと思っています>ととびきり上等の笑顔で振りまく社交辞令と、実際に来ることの間には、月とスッポンくらいの差があるんですね。最後の年2007年は年間(月ではなく)で来た生徒は10人くらいでしょう。
あるときたまにお遊びで歌を歌っている女性が、僕に「村尾さんは店の雑事などせずに、英詩解釈講座で悠然と講義をしたり、研究を続けることに没頭してほしい」と言ったことがあります。店は死線をさまよっている状態で、彼女は英詩解釈講座に1、2度来ただけで、そんな夢みたいなことを言います。彼女が英詩解釈講座にいつも来ていて、絶対にやめてくれるなと言うのならすじは通りますが、そうではないですし、僕のこともほとんどなにも知りません。店はすれすれの状態ですが、彼女は店の経営や内部のことまで口出ししてきます。このときはよほど僕の虫の居所が悪かったんでしょう、僕はメイルで彼女に怒りをぶつけ、多分これが最後のメイルになるでしょうと書き、「あなたも残念なことに、僕が本当はなにをしようとしていて、なにを考えていて、次にどんな本を書きたいと思っているかなど、まったく無関心で考えたこともない、僕の回りにいる多くの人と寸分変わらない一人でした」と結びました。彼女はそれからメイルも寄こしていませんし、店にも来ていません。言っておきますが、お客さんにひどい態度で接するなんてことは、僕は一度もしていません。この場合だって礼を失しているというわけではないです。
でも今までにジャズ詩大全のことでお客さんに言われて嬉しかったことがあるにはあります。一人は40歳くらいの女性で大阪で国語の先生している方、もう一人は僕の知り合いで70歳くらいになる音楽関係の仕事をしている男性です。二人とも、ジャズ詩大全を褒めてくれたあとに、なにげなく「なんと言ってもあのなかの日本語の文章が素晴らしい」と言ってくれたんです。それは僕が一番気にしていることでもあります。もちろんあのなかの個々の曲や論点について、いいとか悪いとか言ってくれたら嬉しいに越したことはないですが、そういうことを言ってくれる人はいません。たとえばアレック・ワイルダーの《American Popular Music》という著書から彼のアメリカ・ポピュラー音楽についての見解を、これは読んで解釈することすらおいそれとはいかない難解な代物ですが、僕は随所で紹介しています。そういう彼の意見、またそれに対して僕が述べている感想や見解など、そんな問題に触れて鋭い批判や質問を浴びせてくる人がいたら、僕は嬉しくなって1、2時間その人と話しこんでしまうでしょう。でもそういう人はいません。まったくいません。だから僕自身も周囲にそういう意見や批判をあまり期待していません。従って「あのなかの日本語の文章が素晴らしい」という感想は嬉しかったです。と言うよりも感想自体を、どんなものでもいいですからもっていてはっきりと述べてくれる人は、僕は好きになってしまいます。
もう一つ言っておかなければならないことは、「日本語の文章が素晴らしい」ということは、ジャズ詩大全の内容と無関係ではないんですね。英語を解釈し訳す場合、英語を理解することがまず大きな課題だということは言うまでもありませんが、理解したことを日本語にすることも負けず劣らず大きな課題です。われわれは日本語で考えものごとを理解するわけですが、あることを日本語で理解できなければ、それは絶対に理解できていないわけです。ですからある英語の文を理解するには、英語の読解力がまず一つ、そして日本語でそれを論理として読解できるということがもう一つ、そして最後にそれを日本語で誰でも理解できるような綺麗で正しいものに仕上げなければなりません。たとえば The anger she had boiled in her mind was painstakingly sublimed into a song. という文章があったとしたら、これは僕なら〈彼女の心のなかで煮えたぎった怒りは、苦吟のなかで1曲の唄に昇華されていった〉と訳します。sublime〈昇華する〉は辞書を引けば出ていますが、昇華の意味はほとんどの日本人は知りません。ときには翻訳を業としている人でも知りません。〈苦吟〉も読めないし判らない人がいるかもしれません。ですから訳が読まれる層を考えて〈彼女の心のなかで煮えたぎった怒りは、苦しみつつ1曲の唄へと仕上げられていった〉と変えるかもしれません。
ニーチェは〈人は自分の理解できる範囲内でしかものごとを理解できない〉と言っています。これは鋭く真実を射ていますね。ジャズを聴きはじめた頃にさんざ聴いた5、60年代のハードバップのレコードなど、20年位して聴くとかなり隅々まで判って、ああ彼はこういうことをしていたのかなんて再認識して僕は驚いたことがよくあります。コード、音、キー、奏法などいろいろなことが判るようになって同じレコードを聴くと、聴ける内容がガクンと増え、理解の度合いがぐっと増します。でも最近ファーラウトの有線放送がその頃のレコードを流すもんですから、聴いているとまたそれから20年以上経っていて、僕の聴く能力が変わっているのかいろいろと発見があります。一つのレコードをとってみても、聴く人の理解する能力の進歩に伴って、その理解の深さが変わり続けます。理解したと思うことは、ある意味では怖いことです。だから英文の読解とは、同時に英語と日本語の両方の読解であり、しかも訳となれば完成された見事な日本文に仕上げなければなりません。つまり英語を訳すという仕事の半分かときにはそれ以上が、日本語をどれほどしっかり組み立てられるかにかかっているわけです。数年前あるアメリカ人の学者の書いた水に関するベストセラー本を訳したものを出版社からもらったので読んでみました。アメリカで大変話題になった本です。しかしあまりの日本文の悪さに、途中で読むのをやめました。日本語の文がメチャメチャで意味が判らないんです。これでは売れないでしょうと出版社には返事をしましたが、やはりそれは売れていません。この訳者は日本文がまずいだけでなく、原文もほとんど理解していないでしょう。というわけで「日本語の文章が素晴らしい」ということは、僕には大きな褒め言葉になるんですね。
さてジャズ詩大全にもどって、10巻から16、17巻くらいまでは力が入っていいものができていると思いますが、18、19巻、クリスマスなどの最近巻は、ファーラウトを始めたこともあって、どうも時間的に苦しい著述になっています。とくにクリスマス曲集はよくできていると思いますが、同時に非常に苦しんでいます。苦しんではいますが、いずれにしろその中の曲について誰かが細かい質問など浴びせてきて、僕が答えに窮するなんてことはほとんどありません。残念ことですが起きません。それは、ほとんど生徒が来なくなり、英詩解釈講座が立ち消えになっていったこととも符合します。そして僕はこの数年で、自分のなかでジャズ詩大全を書く意欲が急速に萎えていくのを、感じざるを得ませんでした。英詩解釈講座はやめましたが、ジャズ詩大全もそろそろやめるときがきていると思います。なによりも僕のなかに、書こうという意欲や闘志がもうありません。ですから計22冊(別巻2)のこの第20巻で終わるのは、ごく自然で妥当なところでしょう。
つい最近も久しぶりにある女性が店に3人連れで来て、僕を連れに紹介するのに「ジャズ詩大全で財産を築いた方」と言います。そして彼女は冗談半分で、あれは高いから買えないとか、ただでちょうだいとか言います。それに対する答えとして、もし僕があれで財産を築いたのだったら、いま最初にやることはなにかということを、ここで言っておきます。
それはなにかと言うと、すぐにファーラウトを閉めることです。すぐ迷わず明日にでも閉めます。金がないからやっているだけです。財産を築いていたのだったら、そもそも僕は商売なんか絶対にやりません。商売は僕のなかではもっとも遠いところにあるものです。
そしてこういう馬鹿なことを言う者が周囲にうんざりするほどいるので、むしろその反動から、ジャズ詩大全は、いつのまにか僕のなかで、もっとも退屈でくだらないどうでもいい事象になってしまいました。べつに意識してそうしているわけじゃないですが、自然にそうなってしまったんです。僕の言動を近くで見聞きしている人たちのなかで、敏感な人には判るでしょうが、僕が自分からジャズ詩大全を話題にすることはありません。誰かが話しに持ち出すと「あー、そう」なんて人ごとみたいに答えますけど、自分で話しを持ち出すことはまったくないですね。僕という生身の人間にとってもっともどうでもいいもの、それがジャズ詩大全なんです。
しかし、ジャズ詩大全は僕にとってマイナスばかりで、いいところがなにもないみたいに書いてきましたが、もちろんそれは言い過ぎです。ジャズ詩大全を書くことによって、僕が得た利得について今度は少し書いてみましょう。お金ではありません。お金になっていたら、僕の人生は変わっていたでしょう。その収入は呆れるほど卑小な額で、人に言う気にもなりません。こう言うとたいていの人が信じませんが、もうそんなことはどうでもいいです。ジャズ詩大全を書いているうちに気づいたことは、その長いシリーズの半分くらいを過ぎたところで、とても自分の英語の読解力が向上したことです。最初のうちアレック・ワイルダーの難しい文章は歯が立たないことが多かったんです。しかし年がら年中開いていて、もうずいぶん前に表紙もぶっちぎれてしまってクズみたいなボロボロ体裁になってしまった彼の本が、ある時気がついたら僕はなに苦労なく読めるようになっていたんです。これには僕は内心とても嬉しかったです。そのほか、ミュージシャンや歌手や音楽評論家やプロデューサーや、そういう人たちの生の言動を(自慢にはなりませんが必要から)読んで読んでヨミヨミ読みまくりましたから、英語の読解に強くなるというだけでなく、ジャズやその周辺の音楽界全体のことをとても深く理解できるようになりました。自分ではそんなこと判ってらあなんてのぼせていたところがありますが、どうしてどうしてやはりこういう仕事をして自分が成長したところは大きいです。この仕事をしなかったら得られなかったような自分の成長とすら言えるかもしれません。
もう一つ、文学や哲学などの学術的文献と較べて、こういう文献はどうしても内容的に浅いですし狭いです。でもしばらくこういうものを読んでいて判ってきたことは、そこに人間というものを読みとれればなにも浅くも狭くもないということです。僕は若いときはほかのものはバカにして文学や哲学しか読まなかったんですが、40半ばくらいから急速に文学、哲学から離れていきました。そしてこういうジャズその他の音楽文献を読んでいて思ったことは、そこにフィクション(文学、虚構)がないこと、理論や論理の積み重ね(哲学)がないことなんです。もちろんすべてではないですがほとんどは、基本的には事実を羅列し語っているだけです。これは音楽文献に限りませんが、科学や歴史や記録文献などもすべて基本的には事実を羅列し語っているわけです。僕は人生半ばから急激に虚構や理論が嫌いになってしまいました。人間が思っていること、望んでいること、期待していることなどどうでもいいんです。重要なのは人間がなにをしたか、なにをしてきたか、それだけです。人間とはどんなに崇高なことを"言って"も"考えて"も、実際に"している"ことがそれに伴わなければ、それを証明することにはならず、"している"ことだけがその人の本姓なんです。重要なのは"してきた"ことであり、なにを考えているか、どういうことをしたいか、なにを書いてきたかではなく、なにをしてきたか、それだけなんです。僕は急速にそういう方向へ変化し、本を読むなら実録、記録、伝記、自伝ものしか読まなくなりました。ジャズ詩大全を書くことによってそうなったとは言えませんが、ジャズ詩大全を書くことと僕のなかのそういう変化とは仲良く並行して進んでいきました。もしかしたらジャズ詩大全を書くことも一つの要因になったかもしれません。
もう一つジャズ詩大全を書くことによって僕が得た利点は、一種の名誉かもしれません。名誉と言うと大げさですが、ときどきそういうものを周囲の人が僕に与えてくれることがあります。もちろんそう多くはありませんが、なにかのときに尊敬のまなざしで見られたり、なにかの恩恵に浴したりということがありました。本当に少ないですが、僕が意図していないところで、ジャズ詩大全は僕に報いてくれるわけです。それからファーラウトを経営し始めて、全然知らない方がファーラウトに来て、サインしてくれとか、お話しを伺わせてくれとかそんなこともありました。さらに洗足音楽大学で90分の講義を依頼されたこともあります。それに関しては、準備不足や、僕が音大生に対する講義にあまり慣れていなかったせいもあり、いいできとは言えないものになってしまいました。90分という枠を考えて、もっと簡潔に欲張らない構成にしなければならなかったでしょう。僕はこういうときどうしても欲張ってしまいます。そういう性格なんですね。その後青葉台の東急BEというカルチュア・スクールで月1回の講義を2期1年間やり、講義のしかたというものを少し勉強しました。英詩解釈教室は僕個人のもので、あまりにも自由に気ままにやっていましたから、講義とは言えないものだったのかもしれません。これらの講義で僕もかなり勉強し、今は少し講義上手になったと思います。
ジャズ詩大全の恩恵は、少ないとはいえ、ファーラウトの営業にいくらかプラスになっていることは確かに否めません。そしてすれすれの状態でなんとかファーラウトを潰さずにやってきているわけですから、だとすればジャズ詩大全のもたらすプラスは無視すべきでないかもしれません。そうは言っても、やはりそれはジャズ詩大全にまつわる虚構のような"評判"や"人気"がそうさせてくれているだけで、ジャズ詩大全の本当の価値がファーラウトを持続させてくれているわけではありません。もしそうなら英詩解釈講座は満員で、週一回くらいやっても間に合わないなんてことになっていたでしょう。もちろんことはそう甘くはありません。ジャズ詩大全の恩恵はそのくらいのもので、それ以上のものではないです。
2009年8月に、ジャズ詩大全第20巻をほぼ書き終わりました。前巻クリスマス曲集もきつかったんですが、今回はさらにきつかったです。精神的に余裕がないからですが、とにかく気が入らず遅々として進まず時間ばかりかかりました。ですからいまかなりホッとして気持ちが楽になってきたところです。大変ではありましたけれど、そのなかで[研究]として、<アレック・ワイルダー論>や
それでジャズ詩大全はどうなるんでしょう? 判りません。もうこれで終わりになるか、終わりに近づいていることだけは確かです。やめないでくれ、続けてくれという声をよく耳にします。でももう僕自身の体力、気力などすべて枯渇しています。はっきりしているのは、僕の関心がもうほかの方にいってしまい、これ以上書いてもいいものが書けそうもないということです。ここでやめるのは、いい時期ではないかと思います。そして僕にはまだやらなければならないことがいっぱいあり、これからそちらの方向に全エネルギーを向けることは、少なくともジャズ詩大全に19年間も心血を注いできた僕には、許されてしかるべきことだと自分では考えています。-----09/10/27
今日初めてこのサイトを見させていただきました。それで初めてメールさせていただきます。私は「ジャズ時大全」全巻持っています。10年くらい前にその存在を知ってから、(値段も確かに!!!でしたが、それに匹敵する)日本語の説明、解釈が嬉しくて、図書館で見るだけでは気が済まなくなり、思い切って購入しました。いつでも思い立った時にすぐに出せるところに並べて、新刊が出るたびに自分で索引を作ったものに追加をして、必要になると読ませてもらっています。いくら辞書で調べてもわからない、時代や、英語特有の言い回し、本当に私のような者にはありがたいです。たまに知りたいのに出ていない曲があると、「残念~、でも次の巻には載っているかも知れない・・・」と永いスタンスで楽しみにしていました。ですから、今、村尾さんがそんなに苦しい思いをされて覚悟もされていることを知り、びっくりし、少しも想像できなかった自分を恥ずかしく思いました。私は、「ファーラウト」には伺えないし(行かせていただいたことはありますが、日常的には無理です)、直接の貢献が何もできませんが、一読者として、「ジャズ詩大全」の末長い続巻をひたすら楽しみにしている一人です。資料集めや、音源チェック、原稿執筆・・・など、どれほどのご苦労かと思いますが、どうぞ何曲でも結構ですから、気になる曲ができた時は追加をしていってください。本当はリクエストしたい曲はいっぱいあります!!!1曲単位でもかまいません。村尾さんの本のような姿勢で解釈をしてくださる方は、よほど恵まれた方以外はめったにいらっしゃらないと思います。一人で趣味にしている人にも大きな希望です。見えない読者ですが、村尾さんの末長いご健康とご活躍をお祈りいたします。 ラーラママ 8/28/2010
- by ジャズクラブFAROUT-ファーラウト-
- at 2007年05月08日

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