はじめに
僕は呼吸や発声を教えていますが、もうこういうことをはじめてから30年近くたちます。呼吸を教えるというのは難しいですね。発声の勉強も難しいことですけど、呼吸さえ良ければ発声なんて自然についてくるものですから、発声は本来そう悩むことではないんです。呼吸さえ良ければいいわけです。ところが呼吸さえ良ければといっても、それがなかなかどうして簡単にはいきません。太極拳の全国優勝の名人は「コツは何ですか?」と訊かれて「呼吸ですね」と答えていましたし、ヨガの神髄も一にも二にも呼吸だと言われますね。昔、将棋の順位戦でA級まで昇った広津八段という方が、将棋盤の上に歩を一枚逆さに立てて、その上に王様を横に平らに載せて、さらにその上にもう一枚の王様を載せ、あと二枚ずつの飛車角から四枚の金銀と上へと積んでいき、そうやって40枚の全将棋駒を積み上げるという、たいへんな芸当を見せていました。将棋界でもこれができるのは広津八段ただ一人でしたが、その「極意は何なんですか?」とたしかNHKのアナウンサーに訊かれて、彼も「呼吸ですね」と答えていましたね。たしかに呼吸が乱れれば、自分の吐息で将棋の駒は崩れ落ちてしまって、とても最後の駒までいかないでしょう。呼吸、呼吸、ああ呼吸。でも呼吸なんてみんな生れてからただやってきているわけだし、悪いなんて言われたって、どうしようもないですよね。でもそれが悪い人は悪いわけです。じつを言うと赤ん坊の時はみんな腹式呼吸で、悪くないんですけど、三、四歳ころから親や周囲の人の悪い呼吸を真似たり、抑圧された環境などの影響をうけて、腹式呼吸を忘れていくんですね。そして気がつくと胸式呼吸になっているというわけです。では生来の腹式呼吸を胸式呼吸にしてしまう、その真犯人とはいったいなんなんでしょう? それは文化なんです。
発声研究 1 序
呼吸についての学問や研究はかなり多くなされてきているが、それでいて、案外その成果は豊かなものとは言えないようだ。 なぜそうかというと、その簡単な説明としては、呼吸が生命体のなかのもっとも生きている部分だからだと言えばいいだろう。 言いかえれば、もっとも生命の神秘ないしはその真髄に近い部分だから、とでも言うしかない。もちろん生命体の各部分はすべて生きているから、この説明はとくに素晴らしいとは言えないが、かかとも髪の毛も皮膚や爪やイボもやはり生きているか ら、そういうものと較べてみれば、呼吸や血液の循環に従事している器官がより活き活きと生きているという意味は、だれでも理解できることと思う。それは、かかとも髪の毛も皮膚や爪やイボもない小さく単純な生物も呼吸と血液循環の器官だけは最低限そなえているという事実をあげれば、さらによく理解できるだろう。つまり生命体にとってもっとも基本的な営為であるから、判りにくいということになる。
しかし成果が豊かでないのならなおさらのこと、呼吸についての学問や研究はなされなければならないことになる。それも正確で深くひろい研究が早くなされなければならない。従ってこの本が「発声研究」という名であるにもかかわらず、発声よりも呼吸に主眼をおき、その点に多く頁をさいていくことになることをまずは最初に断っておきたい。もちろん発声について触れないわけではない。声を出すのはだれでもやることだから、呼吸に関連して研究していて発声について触れないというこ とはありえない。ただ「発声」という言葉には二つの意味があって、たんに普通の人間が声を出す意味での発声と、音楽上の声を出す専門技術としての発声と、ふつうは両様に使われる。この二つの意味の「発声」はまったく違うとも言え、たいてい の発声専門家はそういう立場をとる。私は少し違って、この二つの発声はまったく同じではないけれども、そう大きくは違わないという考えかたに立ちたい。もちろん私はこの両方の発声について触れることになるが、後者の意味の発声については、 他の発声研究書にくらべれば、この本で私はあまり多く触れないだろう。
その理由の一つは、呼吸と前者の意味の発声こそが人間にとっての最重要課題であって、この本はその最重要課題を扱うか らである。そして後者の意味の発声とは、これらの最重要課題がある程度解決されたあとに、考えればいい問題だからでもあ る。そしてもう一つの理由は、後者の意味の発声に関してはイタリーやドイツの発声の先進国で過去に多くの重厚な書物が出されていて、もちろんそういうものの幾ばくかは邦訳もされていて、率直に言えば私がいまさらそういう発声についていい加 減なことを言う必要はさらさらないからである。
ただ発声ではなく、呼吸に関しては、「まったくべつの問題である」と言っておこう。というのは、たとえばイタリーやド イツなどの発声、歌唱の先進国では全国民的に呼吸がよく、あちらの発声の本には呼吸に関する言及が驚くほど少ない、とい う事情があげられる。なかには呼吸に関してほとんどなにも言及せずにすましている発声の本もある。だから、ヨーロッパは全体に呼吸がよすぎるために逆にあまり呼吸に関心をもっていない、とすら言えなくはない。反対に、東洋ではヨーロッパの 国ぐにに較べれば呼吸がわるいために、あるいは少なくとも呼吸になんらかの問題があるために、むしろ呼吸に関してひろく人びとに関心が高いと言っていいかもしれない。ヨガや太極拳などは明らかに最良の呼吸法を身につけることを最終目的とし ているし、ひろい意味では東洋の武道や宗教はすべて呼吸法修得を大前提としている、と考えて間違いない。
では東洋では呼吸に関する研究がさかんかというと必ずしもそうでもない。たいていは武道や宗教とむすびついて抽象的な 修業論や精神論かなにかにすり替えられてしまい、具体的で科学的な呼吸の学問として、あるいは学問でなくとも方法論とし て、結晶しているとはどうも言いがたいのである。もともと東洋のわれわれは呼吸がよくないのだから、それもある意味では 仕方のないことかもしれない。呼吸に関心が高いといっても、修業論であれ、精神論、学問、方法論なんであれ、そういうも のが実効あるものになっていたのなら、われわれの呼吸はヨーロッパ人のそれに匹敵するかあるいはそれよりもすぐれたもの にすらなっていたはずだ。ところがそうはなっていなくて、東洋人の呼吸は依然として西洋人の呼吸に遅れをとっている。こう言いきってしまうことには問題があるが、ここではこの少々乱暴な東西比較論を許してもらって、先に進ませてもらおう。
というわけで具体的な科学としての呼吸の学問は、ヨーロッパでも東洋でもそれぞれ独自の理由によって、あるいはそれぞれにとってかなり皮肉な理由によって、結局ほとんどなにもできあがっていないのである。ヨーロッパの発声の本のなかには恐ろしいほど緻密に細やかに声の共鳴について論じているもの(先にふれた音楽的発声の本)があるが、あれは呼吸ができあ がっている、呼吸の問題が解決されているという前提のうえで成り立つ論であって、言うなればすべてが呼吸以後の問題なの である。アメリカの声楽家リーザ・ローマは「・・・正しい呼吸法こそ科学的歌唱法の95パーセントを占める重要な要素であ る・・・」(注1)と述べているが、これには私もまったく賛成だ。が発声のなかで呼吸が95パ ーセントの比重をしめるということは、けして世界のどこでも確と認識されているわけではない。
注1《発声の科学と技法The Science and Art of Singing》リーザ・ローマ著、鈴木佐太郎訳、音楽之友社、1966年
さてここで言う呼吸とはもちろん腹式呼吸のことであって、ほかのなにものでもない。だから腹式呼吸さえ身につければ発声の問題は95パーセントが解決したと考えていいわけである。あとの5パーセントの高度な共鳴論など習おうと習うまいと好きずきだと、そんなふうに考えて一向にかまわないと私は思っている。クラシックの声楽家になるのならその5パーセントを徹底的にやらなければならないが、そうでないのなら5パーセントなどまったく気にする必要はない。が日本の発声の本には、欧米の声学や発声学の受け売りで、くどくどと高度な共鳴論を展開しているものがかなり多くある。と言うよりも、日本では、声楽を勉強する人は、呼吸の勉強などそっちのけで高度な共鳴論に引きずられ振りまわされ、ついには腹式呼吸すら手に入れることなく終わるという悲惨な結果になる人も非常に多い。それは、そういう高度な共鳴論が、欧米と違って日本人の呼吸の水準が低いために、おおむねなんの役にも立たないからだ。必要なのは呼吸の勉強であり、それも高次元の精神論ではなく低次元で具体的な腹式呼吸修得の術なのである。
私は、音楽学校出だが腹式呼吸ができないという生徒を、実際にいままでに何人か教えてきた。私の経験では、巷のジャズ学校や歌唱教室などに習いにくる生徒の腹式呼吸ができる度合いというのは、多分1割ていどではないかと思う。そしてこの1割という腹式呼吸度は日本人全国民の腹式呼吸度でもあるかもしれない。まあこの数字はもう少し譲歩して、 1-2割と言っておくべきかもしれない。また音楽学校で声楽を習う生徒の腹式呼吸度はそれよりいくらか高いかもしれないが、それでもせいぜい2割ていどだろう。そして彼らが声楽科を卒業しても、その腹式呼吸度は、つぶさに調査したわけではないけれども、多分3割になるかならないかといったところだと思う。こういう現状にある日本人にとって本当に必要なのはなにかというと、もちろん腹式呼吸の修得術であって、高度な共鳴論、発声論ではない。
国民全体の腹式呼吸度なるものが低いということは、生徒の質の悪さだけでなく先生の質の悪さをも招来してしまうが、それは仕方がないことである。先生のなかにも腹式呼吸ができない人が結構いるし、たとえ腹式呼吸ができても、腹式呼吸を教えるとなるとまたこれが非常に難しいので、当てずっぽでいい加減なことを教える教師も少なくない。ほとんど腹式呼吸ができない生徒ばかりの教室で、高尚な共鳴論や重箱の隅をほじくる博識を披露することにかまけるとか、空気を吸ったとき腹がふくれるべきではなく横っ腹や背中がふくれるのが正しいと教えるとか、声の焦点を額のまえのほうで結ばせろとか肛門から脳天まで線をつきとおすようになどと教える人、骨や筋肉は太く長いほど発声に有利だと乱暴なことを言う先生もいれば、肛門をしめろなどと無理なことを生徒に強いる人もいる。もちろん歌手でも腹式呼吸ができない人が多くいる。なにしろ民族全体の腹式呼吸度が低いのだから、これも仕方のないことだ。
ただ腹式呼吸ができない歌手というのは日本だけでなく世界のどこにもいるもので、腹式呼吸について考えはじめれば、ちょっと見よりもはるかに複雑でややこしい問題にふみこんでしまうことを覚悟しなければならない。腹式呼吸ができない歌手は、日本にはもちろん、アメリカのポップ歌手、ジャズ歌手にもいるし、ヨーロッパのシャンソン歌手にも、クラシック歌手にもいるし、アナウンサーにもやはりいる。驚くべきことだがそうなのである。そしてそういう歌手やアナウンサーがまた非常に有名で成功している人だったりする。だからそれが呼吸の問題の難しさであり、ある意味では、歌唱やアナウンス業と呼吸の問題はまた少しべつの問題だということも、深く念頭においておかなければならない。
さてここでは問題をひろげすぎないようにして、まずこの本の全体の構成について触れておこう。最初に、1、2巻で純粋に呼吸について焦点をしぼって考えを進めていきたい。1巻では呼吸の原理、論理について考え、2巻では腹式呼吸の修得、訓練について書いていく。その過程の随所で声楽的発声や共鳴についても考えるが、この点はヨーロッパの専門書に詳しいし、クラシックの声楽家になるのでなければそれほど必要ないと私は考えるから、普通の人に必要な発声と共鳴について考えるにとどめておきたい。そしてつぎは3巻で歌唱へと進んでいき、実際の古今の有名な歌手の発声に触れて、呼吸の善し悪しと歌や声との関連をレコードなどをとおして耳で把握する勉強をしたい。とにかく発声はこの本の主題であり、呼吸、共鳴、歌唱などどれを考えていても、やはり発声が主題であることには変りない。それから、いままでの呼吸、発声の本がまったく触れようとしなかった点として、管楽器吹奏と呼吸の問題について4巻で考える。管楽器の吹奏法は呼吸に関する問題のなかで、重要さにおいてなんら劣るわけではないので、絶対に欠かすわけにはいかない。そしてこれは発声や吹奏という人間の表現行為と呼吸との関連に、新たな視点を当てることになるだろう。さらにそのあとに、最後になるが、呼吸と文化について、発声と文化について考える。おおざっぱに分ければ、この本《発声研究》は1=呼吸、 2=訓練と発声、3=歌唱、4=楽器吹奏、5=文化の五つに視点を分けて考えを進めていくが、最初に断ったように、発声の本であるものの、これはとくに呼吸について重点を置いている発声の研究書だということを、もう一度ここで明記しておきたい。
1 腹式呼吸と胸式呼吸
さて腹式呼吸とはなにかという問題から入っていこう。結論から先に言えば、腹式呼吸とは横隔膜と腹筋でする呼吸である。なぜ結論からさきに言うかというと、ほかに言いようがないし、とくに前提だとか条件といったものもないのだ。結論にたどりつく前にいろいろな前段階の理論とか事実とかがあるわけでもないし、そういったものを組たてて最後に�腹式呼吸�という結論に達するというわけでもないのだ。腹式呼吸がじつは横隔膜呼吸で、胸式呼吸が肋間筋などの胸の筋肉でする呼吸だというようなことは、多くの解説書、理論書で述べてられてきた。が正確には、腹式呼吸は腹筋と横隔膜でする呼吸であり、胸式呼吸はそれ以外の(おもに胸の筋肉だが)筋肉を代用してやる呼吸だと言えば、いいかと思う。
腹式呼吸とは腹筋と横隔膜で肺の下部を上下にうごかす呼吸である。上下とは、腹部から頭部にむけてとその逆の、からだのなかの上下ということだ。哺乳動物の場合も腹式呼吸の原理はまったく同じであって、やはり腹部から頭部にむけてとその逆の方向へと、上下にうごくわけである。動物の四つ足歩行の姿勢ならこれが前後になるが、ここでは腹部から頭部にむけてとその逆のうごきを、すべて姿勢に関係なく�上下�とみなして話しをすすめていく。つぎに胸式呼吸は、おおざっぱに言えば肺を上下ではなく前後にうごかす呼吸で、さらに肩や鎖骨を上げて肺の上部を上にもふくらまそうとする呼吸である。ただしこの肺の前後のうごきも鎖骨や肩のうごきも人によってかなり異なり、そのうごきの厳密な定義はしにくい、ということはとくに頭に入れておいてほしい。簡単に言えば、腹式呼吸は肺の下部(に重点をおく)呼吸で、胸式呼吸は肺の上部(に重点をおく)呼吸という言い方ができるかもしれない。もちろん空気を大量にとり入れようとすれば、どちらの呼吸もできるだけ肺の全体を使おうとするのは同じだ。
そしてさらに、腹式呼吸は肺の下部の上下のうごきであり、胸式呼吸は肺の上部の前後のうごきである、という言いかたも可能だ。腹式呼吸は肺の下部の上下のうごきが主体だが、肋骨が前で割れていて肺の下部は左右と前にもふくらむことができるから、いくらか前にも左右にもふくらむと定義するともっと正確になる。一方、肺の上部は肋骨や鎖骨や肩で囲まれていて上や左右に大きくふくらむことが難しく、もちろんうしろの背中側にも肋骨や背骨があり、大きなふくらみは望めない。が肋骨の前方へのうごきはやや自由があるので、胸式呼吸は肺を前方へふくらませる、と定義することができる。また肩や鎖骨を上げれば上へもいくらかふくらむので、胸式呼吸にはそういう動きも加わる。この肺を前方にふくらませるうごきは、腹式呼吸で生活している人にはできない人もいる(かくいう私もその一人だ)。それから胸式呼吸では、一般に肺のうごき(肺には自前の筋肉がないので正確には肺をうごかす筋肉のうごきということになるが)は、各人各様ぐらいにみな細かなところでは異なるものなのだ。だから胸式呼吸の場合に肺を左右後方よりも前方にうごかしやすいと言っても、その度合いは人によって違うし、うごく場所も胸の真ん中だったり両翼だったりと、これも人によって少しずつ異なる。
全体に、腹式呼吸のほうが合理的なので(その理由はこれから述べる)そのかたちははっきりしていて定義しやすいが、胸式呼吸はそれ自体がきわめて不合理なので、その亜種や擬似的なものがすこぶる多く、ときには判断に苦しむほど奇怪なかたちもある。奇怪などと言うと、人の呼吸がまさか、と思う人もいるかもしれないが、じっさいそうなのである。従って、ある意味では、胸式呼吸の定義はあまり細かに厳密にやっても意味がないとすら言える。むしろ胸式呼吸とは胸の上部でする定型がない呼吸とでも言ったほうが正しいと思う。まあここでは、腹式呼吸は肺の下部の前後、左右、下への拡張で、胸式呼吸は肺の上部の前と上への拡張だと定義して、つぎへすすもう。
2 呼吸のための筋肉=横隔膜
では肺をうごかす筋肉について考えてみよう。肺自体にはそれ自身をうごかすための筋肉がない。どうしてないのか不思議なことだが、とにかくそうなのである。これは、心臓や胃のような臓器はうごきが特殊なせいもあって、造物主がやむをえず筋肉をつけたが、肺をうごかすためにはかなり大きな力を必要とするので外部の運動のための筋肉で代替しようとの、生物体のなかの経済性、合理性の論理のしからしむるところではないかと、私は思っている。肺をうごかす筋肉は大きく分けて二種類あり、横隔膜(厚さ一センチくらいの膜状のもので筋肉と腱でできている)とその下にあってやや間接的に肺に働きかける腹筋群とがその一方で、他方は肋骨から喉頭にかけての胸筋などの諸筋肉群である。しかし厳密には、前者が呼吸の動力源としての筋肉であり、後者はたんに補助としての意味しか担っていない。こういうと胸式呼吸の人から喧々囂々の抗議をうけそうだが、私はこういうふうに考えている。そもそも内外肋間筋は、内肋間筋が呼気を、外肋間筋が吸気を担当して活動はしているが、それは肺の動力源としてではなく、あくまで肋骨を縮めたり拡げたりする補助の仕事としてうごいているのだ。腹式呼吸の人でも内外肋間筋はうごかしているが、それは、腹筋と横隔膜による呼吸を助けて、空気を入れる場所をつくるために、肋骨を(ということは肺を)ひろげる仕事をしているのである。しかしそれはほんの軽い仕事で、そういう使い方をしているかぎり、内外肋間筋はとくに疲れないし痛むこともない。しかし胸式呼吸をやって内外肋間筋を酷使しつづけている人は、慢性的に内外肋間筋が疲労していて、ひどい人は外肋間筋を指で突っつくと苦痛で顔をゆがめる人もいる。二十代の男性の私の生徒の一人は私がこれをやるととても痛がり、あるとき彼が仲間の若者たちにこれをやったら、みな痛がり、しつこくみなでやりっこしていたらあげくは一人が怒りだしたと言っていた。これはとくに激痛ではないものの、厭な痛みを伴うもののようだ。
ほとんどの哺乳動物と多くの人間は横隔膜と腹筋を呼吸の動力の筋肉にしていて、胸の筋肉(内外肋間筋ほか)を動力筋肉として使っているのはおそらく 1-3割くらいの人間のみと思われる。胸の筋肉で呼吸している人間の正確な割合は、正直なところ、私にも判らない。たぶん全地球上の人間の2割前後というところだろう。哺乳動物の呼吸を観察してみるとわかるが、必ずといっていいほど腹式呼吸をしていて、おそらく百パーセント近くが腹式呼吸をしていると思われる。その理由にはあまり深入りできないが、神がそのようにお創りになったとでも言うしかない。爬虫類の時代には横隔膜がなく胸呼吸をしていたから(そしてそれは爬虫類が滅びた理由の一つかもしれないし、隕石落下はそのきっかけにすぎなかったかもしれない)、哺乳類への進化とともに、より合理的な腹式呼吸を身につけるにいたったのだろう。爬虫類の体格や造りは哺乳類のそれとはかなり違っているから、その呼吸筋を胸筋と呼ぶのは無理があるかもしれず、厳密にはその呼吸を胸呼吸と言えるかどうかも判らない。ここでも、胸呼吸とは、腹筋と横隔膜でやる腹式呼吸以外のものと、解釈してほしい。結局、推論でしかないとしても、哺乳類は、地球上に現れて以来すべて腹式呼吸でやってきたということになるだろう。ただ人間のみが、直立して二足歩行をはじめてから腹式呼吸ができない種類(つまり現代人の一部だが)をうみだしてしまったのだ。
どうして直立二足歩行が腹式呼吸をできない人間をつくってしまったのかは、かなり難しくこみいった問題である。それは動物の進化とも重要な関係をもっている。動物の進化の歴史のなかでは、とくに哺乳動物にとって、頭の重さがいつも悩みの種だったと言えるだろう。ライオンやチーターのような狩猟動物は、進化の過程で歯の強さか脚の速さかの選択を迫られることになった。脚の速さを選べば頭を軽くせねばならず、頭を軽くするということは顎を小さくつまり歯を小さく弱くするということを意味し、そういう種は脚は速いがあまり強くなく小さな獲物しかとれない種になっていった。それはチーターが選んだ道だ。ライオンは強い武器となる大きな歯を選び、それは大きな顎と重い頭を意味し、結果として遅い脚を意味した。ライオンは強いが脚が遅く、群で生活して共同で狩りをして、その欠点をおぎなって生きつづけてきた。そうやってそれぞれの動物は種としての長所を伸ばしながら、存続し生きのび、また自然界のなかをいろいろな種と住み分けてきたわけだ。ただし呼吸に関してはどの種もほぼ同じで、いずれも前脚は歩く、走る、頭の重さをささえるという大きな負荷を課せられ、肩、胸、首、鎖骨などの前脚の周辺の筋肉や腱はそれにかかりきりで、呼吸のためにエネルギーを費やす余裕を与えられなかった。だから横隔膜が呼吸の仕事を担当し腹式呼吸をするようになっていった、あるいはそういう選択を余儀なくされたと言えるだろう。だが人間が直立したことによって、前脚は歩く走る行為から解放され、頭の重さからも解放されることになった。人間は手で道具を使いはじめ、道具でものを切ったりすることができるようになって、歯を小さくしていくことも可能になった。また脊髄と背筋などが頭の重さを真下から支えるようになってもっと重い負荷にも耐えられるようになり、脳味噌の量を大幅に増やすことができたわけである。
だから呼吸は依然として横隔膜が担当していてなんの問題もないはずだった。しかしどういうわけかその直立二足歩行のために、逆に横隔膜が使えない人間が出てきてしまった。それはいかにも皮肉なことだった。手が解放されたのは素晴らしいことだったが、肩、胸、首、鎖骨の周辺の筋肉や腱は歩き走ることや頭部の重量を支える大変な仕事から解放されたために、なにかしていなければ落ちつかないとでもいいたげに、今度は発声や呼吸にかかりあうようになり、いわば容喙し口出しするようになってしまったわけだ。横隔膜以外の筋肉で呼吸すること、つまり胸式呼吸だが、胸の周辺の筋肉で呼吸することは、人間が直立したために支払った最大のつけ、代価だったと言えるかもしれない。胸式呼吸をするのはほんの2割前後の人間にすぎないが、やはりこれは大きなたいへん高い代価だったと言えるだろう。人間は人間になることによって多くのものを失った、あるいは人間であることを選ぶ代償としていくつかのものを捨てざるを得なかった。人間の手や脚の筋力は猿やゴリラと較べれば6分の1か7分の1くらいに減ってしまい、人間は木から木へ飛び移ることなどできなくなってしまった。歯も動物とは較べものにならないほど貧弱なものになってしまった。このように人間が直立して文明化したとともに失ったものはいくつかあるが、呼吸の問題はなんといっても一番大きな代価であり、まったくもって皮肉な結果だった。もちろんこれらの推論は私の想像であり創造でしかないが、一応こんなふうに解釈することが可能だ。
哺乳動物への進化とともに手に入れたこの横隔膜はまず第一に呼吸筋だが、同時に胃や肝臓以下の内蔵群と肺との隔壁でもあり、人間の場合はラグビーやサッカーや格闘技などで速く走ったり体当たりをしたりするときに内蔵を押さえつけて安定させる(内蔵が踊ってしまうことをさける)役目をもっている。というか、それよりも本来は、動物が走ったり素早く方向を変えたり、あるいは木からぶらさがる猿のように逆さになったり、といったからだの俊敏なうごきを、内蔵を保護し安定させて可能にしたわけである。また排便やお産のときに下方に圧力をかける動力として働くし、専門家の意見では、まだほかにも内蔵の静脈血をよく絞り出すとか心臓を上下にうごかして運動させその血流を活発にするなどの機能があるようだ。呼吸は自律神経によって操縦され営まれているから、もちろん呼吸の主役である横隔膜は自律神経の安定ともとりわけ密接な関係をもっている。横隔膜の機能は非常に多くしかも重要なものばかりで、その正確な全体像はまだつかめていないと言ったほうが正しい。横隔膜に関しては、発声や声楽の先生はおろか医者ですらろくに知らない人が多いが、判りにくいものだからある意味ではそれも仕方がないのだろう。その重要さは昔の人が横隔膜を<第二の心臓>と呼んだことからも判るが、とにかく奥行きの深いはかり知れないものがある筋肉である。
bass上達に呼吸術が絡むと思い込み、古武術の本を読み、その感を強めました。虚無僧尺八の密息と言う呼吸法に目が止りました。古来日本人はこの呼吸法を自然と身に付けてた由。和服しか着ない人は帯を緊くせずとも着崩れないと申します。これは腹圧と帯で着物を内外から固定するからだと思いました。この為には横隔膜は下がっていなければいけません。この状態は精神集中に良いのでは。天正少年使節団や岩倉具視の欧州使節団も白人の前では物怖じせず堂々たる様子だった由。ザビエルも日本人のそんな様子に感銘したと読んだ事あります。白人は表層筋が立派です、故に横隔膜の助けは不要なのかも。ブレスはブレスト、ブラジャーなどと音が近く、胸と呼吸の関係が深いのか?ヨーロッパの言葉に詳しければ掘り下げられるのですが。 金鎚の僕は呼吸が上手になったトタン千、2千と長距離が幾らでも楽に泳げる様に成りました。コツはしっかりと吐く事です、その反動?で吸気は瞬時に意識せずとも入って来ました。これは五輪選手のアドバイスでしたが。3年程前のTVに遠藤郁子さんが着物で出演、ヨーロッパ生活で体調崩してから、全てを和式に変え、今はショパンが上手く弾けると語ってました。これも呼吸に関係あったのかなと感じました。「呼吸」。奥が深いことは確かです。村尾さんの話が面白いので、迷い込んだまま当分出られません。吉村満09/10/7