マーニ・ニクソンの自伝から!
マーニ・ニクソンの自伝は09年6月にネットで見つけ、アメリカから取り寄せて買いました。面白かったので、夏頃あっという間に読んでしまいましたが、そのなかにとくに忘れられない一節がありました。
それで先日その部分を、12月1日"なおことリクのジャズ放談"の日と6日"オーディション10"の日にファーラウトでお客さん方に読み上げてみました。とても評判が良かったので、ここに掲載しておきます。マーニは1965年秋にピアニストのリバラーチェとラスヴェガスのホテルに出演し、そのときのことを彼女は語っています。
リバラーチェの客は主に中年のご婦人たちで、彼女たちはたいていは一緒に旦那さんたちも連れてきました。当然ですが彼女たちの年齢は年々増えていきました。彼は平均的なご婦人方の感性をうまくつかむのが得意でしたし、自分のイメージが彼女たちにどう写っているかということを感じとる本能と、最高にドラマティックにそれを演じる聡明さをもちあわせていました。彼はときにはママに認められたがっている少年みたいに見えたもんです。彼もそうだったように、全人生をほとんど観客の前で過ごしていると、私的な自分自身という部分はなくなってしまうのかもしれないですね。彼はステイジの上の自分のイメージになっていき、個人的な生活があることを外の世界には否定していきました。こういう姿勢から1960年に同性愛をほのめかした新聞を訴え、彼は勝訴しました。でもそれから何年もあとに彼が亡くなって、その生活が暴露されると、新聞社は彼の遺産管財人に訴え返し、勝訴しました。
-----とてもハンサムで、いつも最高にめかしこんでステイジに出てきてピアノを弾いていましたが、リバラーチェはホモだったようです。1919 年生れで、1987にエイズがはやったときにやはりそれにかかって亡くなりました。そのニューズは当時日本にも伝わってきました。(村尾注、以下同)
しかしリバラーチェが私にしてくれた話しは、劇場での演奏者、演技者たちの自我が現実と演技との境界線をぼかしてしまうということについて、いつも私に考えさせました。彼は若いとき偉大な歌手ヘレン・モーガンの伴奏をしていたんです。ヘレンはピアノの上に腰掛けて歌うのと、ソプラノの素敵な声で涙に濡れたバラードを歌うので有名でした。1927年にミュージカル【ショウボウト】のなかでジュリーの役を作り上げましたし、彼女は1936年の映画版でもそれを演じましたけど、アルコール中毒で若くして悲劇的な死を遂げました。その歌手生活の終わりごろのあるとき、彼女とリバラーチェはミルウォーキーのあるクラブに出演していたんです。
「He's just my Bill...an ordinary guy. あれが私のビル。ただの普通の男よ」
-----これはその中の Bill という曲で、不朽の名作と言っていいような曲です。ヘレン・モーガンの Bill は大変有名になり、1950年から60年ごろには、レコード・マニアの垂涎の的になっていました。僕は1962年くらしでしたか、それが日本でEP盤で発売されたことがあり、それを買いに行き、どういうわけか今でもそれを持っています。またHelen Morgan Storyという映画も(邦題は忘れましたが)来ました。それは今でも検索すれば出てくるかもしれません。
そして毎晩彼はヘレンの伴奏をしていて涙をこぼして泣きました。でもしばらくして彼はそういう自分を恥ずかしく思い、この曲をやるときは気持ちと涙を抑えようと自分のなかで決心したんです。とうとうある晩、彼は自分の感情を抑えることに成功し、ポーカーフェイスでピアノを弾くことができたんです。ショウのあとステイジ裏に下がると、苛ついたヘレンが彼のところに急いできて、「なぜ泣くのをやめたの? いったいなにをしようってわけ? 私のショウをぶち壊す気?」とどなったんです。
私はこのことが忘れられなくなり、それ以来ステイジの上で気持ちをはき出して泣くことを恐れないようになりました。これは私にとってもとても役に立ちました。のちの1990年代にミュージカル【ジェイムズ・ジョイスの死者】で合図に会わせて二年間私は泣き続けたもんです。
西部の大きな劇場のいくつかで演奏したあと、私たちはラスヴェガスに出演しました。なんて言ったらいいんでしょう? それは月で演奏するような奇妙な感じでした。
私たちはリヴィエラ・ホテルのヴェルサイユ・ルームに出たんです。リヴィエラは、50年間もテイブルとスロットマシーンでみんなのお金を巻き上げてきたのに、まだ健在でした。最近ではリヴィエラは大きなショウを手がけるようになりましたね。半裸かときには全裸の女性たちを出して、大仕掛けのビックリするようなショウを見せています。でもその頃はヴェガスはスペシャルのSがつくようなスターを出していて、リバラーチェはその主要メンバーの一人でした。
あのころはどの大きなホテルもトップクラスのスターを一人、二人出演させていました。私たちが出ていた1965年の秋にも、ディーン・マーティンがサンズに、メル・トーメがトロピカーナに、ゴードン・マクレエとシーラ・マクレエがフラミンゴに、コニー・フランシスがサハラに出ていました。そしてこれらは大会場でやっていて、こぢんまりとして入りやすい小さいラウンジではトランペッターでバンド・リーダーのハリー・ジェイムズや、歌手のデラ・リーズ、お笑いのシェキー・グリーンらが出てました。それからその後に来る予定になっていた人たちは、トニー・ベネット、ドナルド・オコナー、ヴィッキー・カー、ケイ・スターなどまだまだたくさんです。黄金時代のラスヴェガスはそんなふうでしたね。
私たちは一晩に2ステイジを短い休憩を挟んでやりました。彼はバーブラ・ストライザンドとやっていたのと同じように、観客の期待を高めるためにも、とても派手に私を紹介してくれたもんです。
「さあさあ、やってきましたよ、最高のスターたちの影武者歌手、ミス・マーニ・ニクソンです」
そうやって私を紹介したあとも、よく彼はステイジに残ってさらに客をあおり立てました。私がMy Fair Ladyからの曲を集めてやるときは、彼はこう言います。
「さて、イーライザ、今日は母音の練習をしたんだろうね? なにか私に聴かせておくれ!」
そこで私が [Rain in Spain] のなかから適当に言葉を拾って言います。すると彼は喜びいさんで観客の方に向きこう言うんです、「I think she's got it! I think she's got it! やったね、できたよ、この子はできたじゃないか!」と。
-----リバラーチェが言ったこのセリフはいずれも My Fair Lady のなかのDolittle博士がすれっからしのイーライザに言う言葉。
それから私が歌うために舞台をゆだね てくれます。ときには私の歌が終わると、また戻ってきて私自身としてのマーニに話しかけてくれることもありました。
「マーニ、ところでああいう曲を歌って、自分の声がスクリーンの違う人の口から出てくるのを聴くのはどんな気持ちなんだい?」
そういうとき私は笑わせたりふざけたりせずに、できるだけ正直に答えたもんです。でも私が細ごまとしたことを話しすぎたりすると、彼は巧妙にさりげなく私を引き戻してくれました。彼は私たちがなによりもエンターテイナーであり、真面目で直接的な答えを望んではいても、まず私たちが観客に受けるほうが先だということをよく判っていました。観客はこういう即興のインタヴュー的会話をいつも大好きなものです。こういうときの後に、ステイジの裏で彼は私の言った面白い話しや言葉を思い出させてくれましたし、それによって次のショウのレパートリィになにか手を加えたりもしました。なにもかも、ホントに素晴らしく楽しい時間でした。こういうふうになにが効果的かをつねに計りながら、即興でショウを作っていく彼の姿勢は、のちに私がいろいろなエンターテイナーと仕事をするときにとても役に立ちましたね。今日でも私はそれにたいへん助けられています。ステイジ上のどんな状況にも敏感に反応する気持ちを持つということは、最良のエンターテイナーでも計算ずくの展開で自然さを失なってしまうことがありますから、そんな事態を救ってくれるんです。
ショウのあいだの休憩では、空調がのどをカラカラにしてしまうので、私は更衣室の外に出なければなりませんでした。こういう経験は私だけじゃありません。歌手たちはみな"ヴェガスのど"と呼んでいました。砂漠の熱とひっきりなしの空調は声を出すものにとってはひどく有害でした。
ラスヴェガスのある晩、ショウのあいだの休憩に彼は更衣室に私を呼び、手を取って私の目を真っ直ぐに見すえて話し始めました。まもなく彼は南部をワンナイト・スタンドの仕事で回る予定で、私に一緒に行ってくれと言うんです。それはかなりきつい仕事で、ラスヴェガスや私たちがやり慣れている大きな劇場の便利さは望めないと彼は言いました。でも同時にとても楽しいから、ぜひ一緒に来てくれとも言いました。それでそれまで聞いたこともない腰を抜かすような高額のギャラを私に払うと付け加えたんです。私はよく検討してみますと、でももういろいろな出演とリサイタルの予定が組まれてしまってますと、彼に言いました。
-----ワンナイト・スタンドの仕事は、地方を一日ずつ移動して、田舎のクラブや劇場などを巡回する仕事で、アメリカは広いから、音楽家や芸人にとってもっともつらく大変な仕事。
本当のことを言うと、もう私は彼とはこれ以上やらないと心に決めていました。私は、歌手が成長していくために必要な、オペラや交響楽団とのいくつかの大切な契約を断りたいとは思っていませんでしたから。それから家族にも会いたかったし、私の時間を子供たちに割いてあげたかったんです。
次の日のショウのあいだに私は心を決めて、心臓をドキドキさせながら、リバラーチェにその仕事には同行できないと告げました。彼は真剣な目つきで私を見つめ、椅子にドッカリと腰を落として、説き伏せにかかりました。この仕事を一緒にできないというほどの、私が契約している次の仕事の内容を、彼は知りたいと言いました。
ストラヴィンスキーとのコンサートの仕事です。おお、それはすごいね、彼は言いました、でもそれできみはいくら稼げるって言うんだい? それからキャリフォルニアのレッドランズ・ボウルでの小さなリサイタル。僕のショウを見に来る観客数の規模をきみは判っているだろうね?
-----マーニはとても譜面が強くて、音域が広く、高音が見事に出て、ピッチ(音程)が確かでした。従ってストラヴィンスキーやシェーンベルクのような難しい曲を書く人にとっては、彼女はいつも、歌い手の選択肢のNo.1に位置していました。
「マーニ」彼はおだて、そして説得にかかりました。「きみは僕が本当に信頼している数少ない歌手の一人だってことを判ってるかい? 僕らは一緒にやってどれほど楽しんできたか、どれほどうまくやってきたか、きみは判ってないのかい?」
私が答えるよりも前に、彼は私への出演料をさらにつり上げてきました。
私の頭のなかはお世辞と高額の報酬とでグルグルと回っていましたが、私の痛む心は私の子供たち、可愛くて素敵なよく笑う妹メラーニと、育ち盛りの兄アンディと、彼らが見つけてきた子猫を飼いたいと私に告げる優しい末娘マーサとともにありました。私がノーと言えば言うほど彼は掛け金を釣り上げてきました。私はまず一番に母親ですからこれ以上子供たちを放っておくことはできないんですと言いました。夫のアーネストはうちにいて助けてくれていますけど、でも私の気持ちはこのけばけばしい場所でドンドン萎えていきます。彼は笑って判ったと言い、またしても価格を上げてきました。結局、ひとしきり押したりかわしたりしたのちに、私は静まり深い息をしてから、私が滅多にしないことですが小さくボソッと最後につぶやきました、ノーと。
リバラーチェは椅子に深く寄りかかり、眉毛のあたりを手でぬぐい、かなり長い間私をジッと見つめていました。そしてなんと涙に濡れて泣き始めたんです。
私はとても感傷的な人間ですから、私も同じようにグシャグシャに泣き始めました。私はホントにすまない気持ちでいっぱいでした。ここに本当に寛大で私のことを好きでいてくれるピアニストがいて、それなのに私が彼の要求をはねつけるなんて。泣いている彼の顔を私は見ることができませんでした。彼は、まるでいつも思い通りにやってきて突然私に拒絶された、小さな子供みたい見えました。いざはねつけられると、彼はどうしていいか判らないようでした。私も人にノーと言うことができないたちですから、彼の気持ちはよく判りました。彼を傷つけるということが、私自身をもひどく傷つけました。私たちは、ラスヴェガスの贅沢で華美な更衣室で、魂の抜け殻みたいになっていました。それでも決定はくだされ、賽は投げられたんです。
残り数回の彼とのショウでは、表面上はステイジの上の態度はなにも変わりませんでしたけど、ステイジ裏の彼は傷ついている様子で、私の心も同じように痛みました。最後のショウが終わった後で、私は彼の衣装係がいつものように彼がスモウキング・ジャケットを着るのを助けているのを見ていました。それから彼はシャンペンを出してきて、サインを求めて群らがり待っている人たちに注いでいました。いつもの夜もやっているように彼はそうやって二時間も坐って、ファンたちにそれぞれ個人的なサインをしてあげて、さらに彼のショウのどこが良かったかを一いち訊いていました。ある白髪頭の小柄な女性がそのなかにいて、彼は46歳でしたけど、彼女は70歳は超えていたでしょう。彼女が「あら、リバラーチェさん、私は小さい頃から、いつもあなたの演奏を聴くのが大好きでしたよ」と言ったんです。彼は私の方を見てウィンクし、それでまた私は彼と気持ちが近いのだと感じさせてくれましたけど、そのご婦人に素晴らしい笑顔を注いでいました。
「もちろん、そうでしょうとも。ありがとうございます」と彼は言いました。
彼は"ショウマンシップそのもの"でしたけど、そのうえ根っからの紳士でした。
2009/12/8
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10月28日の午後外国のニューズを見てましたら、最近の研究で、カレーの成分がガン細胞を殺すことが判った、と報じられていました。なるほど、そうなんですか。(日本のではなくインド周辺の)カレーはたくさんの香辛料をミックスして作ります。唐辛子、レモングラス、ニンニク、エシャロット、コリアンダー、オールスパイス、カルダモン、クミン、クローブ、こしょう(黒・白)、シナモン、スターアニス、ターメリック、フェンネル、メース・ナツメグなど、まだありますが、料理によって家庭によって材料もミックスの仕方も違うようです。さらにタイへ行くとココナッツミルクやコブミカンの葉も入れます。元もとインドにもタイにもカレーという名称はないんです。インドの料理をイギリス人がカレーと名づけて、19世紀にカレー・ルーやペイストのようなものをイギリ ス家庭向けに売り出したのが、カレーという名称の始まりです。
このたくさんの香辛料のなかのなにがガン細胞を殺すのかは判りません。でも長い間の生活の知恵で、これら香辛料が殺菌力をもっているということは体で感じてこういった料理ができてきたんでしょう。日本でも虫の多いカツオには必ず殺菌力の強いショウガをつけますし、肉を多く食べる韓国ではキムチに唐辛子をたくさん入れます。インドは暑いです。気温50度にもなる地方があります。殺菌してくれる香辛料は、そもそもなによりも欠かせなかったでしょう。その昔ヨーロッパでは腐りかかった肉でも胡椒をかけて食べていました。胡椒の値段はだんだん高くなっていって、一時期イスタンブールあたりでは、同じ重さの金と胡椒が交換取引されていたと言います。そんな時代もあったんですね。余談ですが、ファーラウトにはインド・カレーのメニューが、ラム肉のカレー・ベンガル風、ケララカレー、と二つありまして、皆さんのご好評をいただいています。どうぞお試しください。
1947年か48年かもう記憶が定かではないんですが、四国の高松のはずれに住んでいた僕は、父が当時善通寺市に駐屯していた英連邦軍の基地のマネジャーをやっていた関係で、ある日基地に招待されごちそうになりました。イギリス軍、オーストラリア軍の宿舎でもごちそうを振る舞われましたけど、インド軍の宿舎ではカレーを振る舞われました。食うものがろくにない時代でしたから、当時の僕はひどい欠食児童で、なにもかもとてつもなくうまく目を白黒させてました。カレーは香辛料が多く、わずかな塩分だけで、甘みは皆無です。でも初めて食べるものですから、驚きの方が勝って細かいところは憶えていません。最後にチャパティが出ました。小麦粉を煎餅状にして焼き、ほんのわずかに塩分が感じられる、ただそれだけのものです。これはカレーの辛みを取るのだ
とそのとき説明されたような気がします。しかしこのチャパティのなんとうまかったことよ! 不思議でした。なにもしていないただ軽く焼いただけのチャパティがほんとに素晴らしくうまかったです。
聞くところによると、インドでは食事の時奥さんがそばに侍ってチャパティを焼くんです。従って奥さんは食事できません。あとで一人ですることになります。ですがチャパティを焼くのには全神経を注いでやらなければならず、それしかないのでしょう。大きな甕のような釜に火を入れて、甕の内側の壁にチャパティを貼りつけて焼きます。ちょうどいい頃合いでそれを出さなければなりません。少しでも遅れるとチャパティは壁からはがれて落ちてしまいます。焼けてなくても焼けすぎてもいけません。それといいチャパティを焼くというのは、奥さんの大きな評価基準でもあるそうです。イギリスでも紅茶の入れ方は奥さんの大きな評価基準と言われていますね。やれやれいろいろとたいへんです。ガン細胞を殺すと言えば、松の木から発散する気体にもガン細胞を殺す作用があるそうですから、松林に囲まれたところに住めば効果があるでしょう。こういう素朴な自然の植物の力をわれわれは忘れてはいけないということだと思います。
10/31日晦日ジャム・セッションはマシュー・フリーキーMatthew Fricke(gt)、村尾陸男(p)、光田将也(b)というメンバーでお贈りしました。マシューはルイズィアナ州出身で、メンフィスやニューオーリンズでも演奏していたというから、いわば本場の血統書付き名馬みたいな感じです。早く来て楽器をおいてどこかへ行ったらしく、ピアノのそばに楽器だけあったので見たら、ケイスにMemphisとプリント字で貼ってあります。それがダテじゃないところが格好いいですね。
さて始まるとマシューのプレイはとてもよく、まさに本物でした。アマチュアでうまいというような、そんなものではなく、彼はジャズのメッカでプロで数年やっていたというだけあって、プロの確かな腕前でした。やはり格が一段違います。マシュー・フリーキーは夏頃ファーラウトのジャム・セッションにフラッとやってきたんですが、彼はこちらにとっては本当の発見、みっけものでした。棚からぼた餅みたいなもんです。しかも話してみると、彼は英語の先生をやっていて、どこも演奏する場所も仲間もなく、まったく演奏していないと言います。驚きました。
そういうことからかギターが5人も来て回すのに大変でした。ピアノ4、ドラム1、歌5、見物3で、みんなソロが長いので回すのが大変。途中でマシューがドラムも敲いてくれました。ベースはだれも来なくて、光田くんが長時間弾きっぱなしになりましたけど、まあ、問題なかったようです。
マシュー・フリーキーは11月30日、12月18日とファーラウト・ジャム・セッションに参加してくれますから、どうぞ皆さんお見逃しなく、いらしてください。また来年からもファーラウトに常時出演してくれる予定ですし、ジャム・セッション以外にも彼の演奏をフィーチュアした日を作ろうと考えていますから、皆さん楽しみにしていてください。 村尾陸男より報告!
2009/10/29
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- by ジャズクラブFAROUT-ファーラウト-
- at 11:28
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