日本人ジャズ歌手と英語

日本人のジャズ歌手にとって英語は難しく大変ですね。たぶん文化的な問題からでしょうが、日本人は世界でもっとも英語の下手な国民のような気がします。中東やアジアの毎日戦争に明け暮れているゲリラ集団の連中でさえ、記者に囲まれると上手い英語ではなくともなんとか通じる英語でアピールし始めますね。日本の政治家や官僚には東大卒が多いですが、ほとんどが英語は喋れません。日本人がそんな状態なのに、ジャズ歌手はさらにジャズを歌うんですから、その大変さは並大抵ではないです。日本人一般の英語力も日本の英語教育もなにもかもダメなところへもってきて、ジャズ歌手だけ完璧に英語の歌を歌えと言われても、まあ無理には違いないです。だったらジャズ歌手をやめればいいんですけど、やめずにジャズ歌手をつづけるなら、どうするか? やるしかないですね。

そこで、もしなによりも先に結論として一番簡単な上達法を一言で言えと言われたら、「話すこと」と僕は答えるしかないです。話せば通じないので、通じるような発音になっていき、通じるような発音になれば、今度は聴きとることも容易になってくるでしょう。話すことを敬遠していては上達はないですね。でもこれでは通り一遍の答えで、よくある英語入門みたいな本に書いてあることとあまり変わらないです。従ってここでは少し違う角度から考えてみましょう。「話す」と「聴く」は質的には同じなんです。「話す、聴く」は「読む、書く」とはまったくべつです。「話す」と「聴く」をやらないと本当の上達は望めないですが、やらないにしてももし「読む」、「書く」だけでもしていれば、それはそれでなにもしないよりはずっといいです。しかしさらに「読む」、「書く」もしないのなら、すぐジャズ歌手をやめるしかないですね。それは少なくとも社会に迷惑をかけないということで、最低限度必要なことです。

さてジャズ歌手をやめないでやっていくのなら、なにかをしなくてはならないですね。「読む、書く」をしないで、「話す、聴く」だけをするのは、怠惰で図々しいやりかたですけど、まあジャズ歌手として最低限度必要なことはクリアしていると言えそうです。「読む、書く」のとくに「読む」を怠ると教養や知識が狭まって、どうしても歌やその歌手自身の人間性やあれこれのハバが拡がっていかないもんです。しかしビリー・ホリデイやチャーリィ・パーカーみたいに天才だったら、それはべつです。彼らは酒をのんで麻薬を打って引っ繰り返っていても、起きるとうまくなっていて、教養もへったくれもないわけです。天才はまったくべつです。天才はあっという間に昇りつめて次の日心臓麻痺で死んでいるかもしれないですが、どっちにしろ凡人には関係ないことです。天才とは、自分の人生について一顧だにせず、凡人たちに理想を示してくれているのかもしれません。

それはともかく、自分が天才ではないと悟っていて、しかもジャズ歌手をやめないのなら、勉強しなければなりませんね。「読む」、「書く」をし、「話す」、「聴く」をするわけです。それ以外に楽なずるい方法などあるわけがありません。僕がこういうことを言っているのは、僕は天才ではなく凡人で、こういうことで苦しみ抜いて、自分にむち打って「読む」、「書く」、「話す」、「聴く」をやってきたからなんです。その意味では少なくとも僕はこういうことを言う資格があると思っています。僕は35年くらい英語の本を読み続けてきました。今でも英語の本を読まない日は1年中1日もありません。大げさでなくそうです。便所には英語の本が何冊か積んでありまして、忙しくて遅く帰ってきて朝起きてすぐでかける日もありますけど、最低でも便所は行きますから必ず読むわけです。それからカバンやリュックには読みかけの本が入れてあり、乗り物に乗ればすぐに本を読みはじめます。書くのは、たまに知りあいにメイルを打つぐらいで、あまり書いていません。読むのは簡単で、最初のうちは辞書片手に読んでましたけど、そのうち辞書など面倒でもたなくなり、判らないところはそのままに通り過ぎて読んでいました。それが習慣になり、今はほとんど辞書は使いません。どっちみち字が小さくて見えないんですが。でも皆さんも読めない漢字や知らない言葉があっても新聞や雑誌を辞書なしで毎日読んでますから、それと同じでどうってことはありません。それはとくにすごいことでもなんでもないんですよ。まあ慣れですね。

さて、僕がこの文を書いているのには、一つの目的があります。つまり天才ではないとして、凡人でしかもジャズ歌手をやめないで、そのうえ「読む」、「書く」、「話す」、「聴く」を完璧にやれ(ら)ないとすれば、どうしたらいいか、そういうずぼらな人に答えなり助言なりをするにはどうしたらいいか、難しいけどなんとか名案をひねり出してみたい、それがこの小文の目的です。一見して無謀な試みで、もちろんその答えはやさしくないです。でもなにかしらうまくやっていく方法は、そのコツは、そんなものがないかと考えてみました。まずダメ歌手にも簡単に楽にやれるように、これら「読む」、「書く」、「話す」、「聴く」に順位をつけてみましょう。「書く」は4です。一番最初に省きましょう。綴りなんか間違っていてもいいし、今ファーラウトにいるコックのNathanなんかアメリカ人のくせして判読不能の字と滅茶苦茶な綴りで野菜や肉など買い出しリストを僕によこしますから、それほど気にする必要もないでしょう。彼は綴りは違っていると思うよ、と言い訳しますが、もちろん違っています。アメリカ人のそういういい加減なところも、まあ魅力の一つと考えましょうか?

「書く」ことは重要には違いないですが、英語を書く機会はあまりないですし、今はなくてもどうということはないですね。最近ではメイルなんか打っていると、メイラー・ソフトが綴りの間違いを赤線を引っぱって教えてくれますから、便利な時代です。でも近頃は携帯でメイルを送ることが多くなって、ill be there asap なんて謎みたいな返事が来たりします。これは" I'll be there as soon as possible できるだけ早く行くよ"なんていう意味の短縮形です。大文字一切なしのメイルもその特徴です。最初は驚きましたけど、慣れればなんてことはないです。手紙なんか滅多に出しませんから、書き方も判らなくなってきましたし、携帯メイルだって年とってくると小さくて見えなくてやっぱり出しません。でも「書く」ことの良さは構文を作るという作業にあります。文を組み立てるというのはとても重要で、そうやっていると話すことや考えることの練習にもなるんですね。それから忙しい日常のなかでは一種の精神的冷却剤になってくれます。「書く」ことによって細かく正確にものごとを考える機会が得られ、いろいろと反省することができます。もしあなたが英語の勉強を毎日真剣に多くやっているのだったら、とくに「書く」ということを取り入れた方がいいでしょう。その方がいい加減で上っ面だけの勉強に陥りがちな英語習得を、しっかりとした実のあるものにしてくれるものです。

それで次は「話す」の順位3です。冒頭で上達法を一言で言えと言われたら「話すこと」と言ったのに、省くとしたら2番目にくると僕はおかしなことを言っていますね。英米人の友達がいない、英会話スクールに通う時間と金がない、以前通っていたけどNovaみたいなところにアブク銭を儲けさせて終わった(僕が教えていた歌の生徒で1年分だかの授業料70万円を払って途中で行かなくなってそれっきりにしたというOLがいました、その70万円を俺によこせよと僕は叫びました)、たまに話す機会があっても片言の挨拶ぐらいで終わってしまい自分の英語力アップなどにはつながらない、そういうジャズ歌手は多いでしょうね。だいたいNovaみたいな英会話スクールが大きくなってのさばるのは、日本の英語教育がでたらめで腐りきっているからです。英語教育がいかれているので、みんな苦労して英会話スクールにいくわけです。英語教育がいいものであれば英会話スクールはみんな潰れて成り立たないでしょう。旧文部省、現文部科学省は英会話スクール繁栄の立役者で最大の功労者ですね。彼らは英会話スクールの名誉顧問かなにかで天下りできるでしょうし、高額の生涯年金かなにかをもらっても文句はでないかも・・・いやいや、英会話スクールはあいつらを重役なんかにしたら潰れちまうから、恐くて入れられないか、まあ、どっちでもいいや。

いや、話しを戻して、話すのはいつもたいへんですね。歌手が歌うのを聴いていて、かなり発音のイロハを守っていても、結局あちこちで英語らしい発音になっていないのは、話さないからだと判ります。ごく普通の平凡な日常会話でも多くの頻度でやっていれば、発音というものは整ってきます。難しい語彙などなく知的な会話でなくても、それでいいです。ポイントは母音はいい加減でも子音をきちんとふまえて発音することです。それがアジアやアフリカ、アラブ、それから中南米やヨーロッパなどの、英語国民でない人の守る最低限の約束ごとです。つまり子音だけが最後のよすがとなるんですね。子音さえきちんと発音できたら、どんな下手な英語でも聴きとってもらえるものです。先ほど触れたアジアや中東のゲリラも、発音はひどいですが子音だけは守っているから通じるわけです。

よくアメリカへ行けば英語が上手くなる、話せるようになると思っている人がいますね。それはほんの少々は正しいですけど、たいていはそうは運ばないですね。英米人と結婚していたって英語を話していなければダメですし、アメリカで生活していても、日本人に囲まれていたり、日本の会社などで働いていたりすると、全然うまくならないものです。たしかにものを買ったり、バスやタクシーに乗ったり、道を訊いたり、食べ物を注文したりとかは、当然できるようになりますけど、いつまでもその程度でそれ以上に上手くはなりません。そういうものを超えて、人との会話が政治や科学や細かな人間関係やその人の心の奥深くまで及ぶようになるには、自分から率先してそういうことを話さなければ話せるようにはなっていきません。アメリカの音楽大学に留学して帰ってくる日本人ミュージシャンは増える一方ですが、彼らの音楽的力量はともかく、いったい彼らの何人が英語を喋れるんですか? 彼らの何人が英語の本を読めるんでしょうか?

僕がアメリカに行っていた1966年10月でしたか、ときどき僕が顔を出していたサンフランスィスコの日本人バー「富士」のバーテンが徴兵に取られてしまいました。ヴィエトナム戦争が激化し始めた頃で、彼はアメリカに13年いてグリーンカード(永住権)を持っていたから徴兵を拒否できなかったんです。みんなで送別会をやって生きて帰って来いよなと笑って励ましました。お通夜みたいに送り出すわけにもいきませんから、笑うしかなかったんです。それで彼はワシントンDCに行ったと聞きました。しばらくして67年の1月でしたか、「富士」へ行くと、アレッ、なんと彼がカウンターの中にいるではないですか。おい、いったいどうしたんだい? すると彼は答えません。なにかもじもじして反応が悪いんです。よくよく問いただすと、英語力不足で追い返されたと言うんです。いやいや、これには、みんなで大笑い。戦争だから命令もなんもかもパッパパッパと伝わらないと困るわな。ホント世の中なにが幸いするかは判らなんもんじゃ。ウワッハッハッハ!

でもジャズ歌手はそうはいきません。やるっきゃないです。「聴く」のも「読む」のも受動的なんで、自分さえその気があればできますし、「書く」のも同じですね。でも「話す」のだけは違います。これだけは相手がいて、話し相手になってくれないとうまくいきません。そしてある程度、話しの内容がお互いに伝わらないと、どちらも面白くないですから長続きしませんね。話すということは、日本人同士が話している場合も同じですが、なにか通いあうものがないと続きません。日常の会話の95%くらいは、ただ会話する恰好をとり繕うために、仕事やなにかの関係を維持する必要から話しているだけで、なにかが通いあうなんてことはほとんどありません。ときには友達でも恋人同士でも夫婦でもそうです(おっと余計なことか!)。英語の場合、やはりなにかしら意味のあることが話せれば、話し相手としての関係だけだったとしても、あんがい続くもんです。そういうとき I enjoyed talking with you very much. なんて英米人は言いますね。われわれは「あなたとの会話はとても楽しかった」なんて言うことは、日頃まず絶対にありませんね。とにかく会話が楽しめるようになればしめたもんです。楽しめるようになる、それはポイントです、非常に重要なことです。

でも話す機会がうまくもてないジャズ歌手は多いでしょう。そこでそういうジャズ歌手には特別サーヴィスで「話す」も省いてさしあげます。これは、また、大盤振る舞いですね。時間も金もないジャズ歌手くんの立場に立って僕は最大限努力しています。さて次は「読む」で順位2です。ということは順位1は「聴く」で、ニューズ、スポーツ、ドラマ、漫画、自然探訪、なんでも見て聴くことが一番ですが、それに付随して読むことが、あなたの英語の知識を強化してくれます。英語の新聞、週刊誌などを読んでいると、たいていの記事は載っていますから、ニューズを視聴していても判りやすく、大きな助けになります。英語のニューズを視聴する前にこういう記事を読む、またニューズを視聴したあとにこういう記事を読む、これはとても効果的です。「読む」、「聴く」両方が相互に補強し合ってくれるので、判りやすいんです。僕が毛沢東(モウタクトウ)をMao Tse Tung マオ・ツォートン(英語の綴りは違う場合もありますが)と発音し読むのだと知ったのは、アメリカに行って読んだ新聞、週刊誌、ラジオのニューズからで、日本の教育からではありませんでした。英語のニューズを聴いてもモウタクトウしか知らない日本人は最初は聴きとれません。先日もオリンピックを見ていると、いまだに中国名を日本読みしていて、英語の場内アナウンスと日本語中継の大きな落差にゾッとすることがありました。なぜああいう無駄なことをするんでしょう? 中国名は最初から教育で中国式に読めば、われわれの勉強は一回ですむのに、どうしてこんな無駄な苦労を強いるんでしょうかね? 日本の教育のおかげで僕はアメリカへ行って、ずいぶん恥をかきました。日本の英語教育はずっと腐ってますが、まだまだ続きそうですね。あるいは数年前でしたかアメリカのキャンターCantor通商代表の名前を日本のマスコミはカンターと発音して統一していましたが、あれはなんのためなんでしょう? キャンディ、キャンプ、キャンセルはもうすでに立派な日本語ですから、キャンターをカンターと発音して統一する理由は何なんでしょうか? 

「読む」ことは、思いのほか英語の知識を豊かにしてくれます。それに本や新聞、週刊誌はいまとても安く簡単に手に入りますから、とりあえず電車の中などで目を通すのは楽な方法です。僕は一時はどこへ行ってなにをしてても、5分ほど時間が空くのなら本を出して読んでました。僕は30代に茅ヶ崎に住んでいて、赤坂や銀座まで夜ピアノを弾きに、毎日東海道線で往復していました。ちょうど10年間茅ヶ崎に住み、ほぼ1時間の電車の中で、最初の3年は日本語の、あとの7年は英語の本を、59分ぐらい読んでました。途中で読み終わって、次の本をカバンに入れてなかったりすると、そういう愚かな自分にカッカするほど時間を惜しんで読んでました。演奏の合間の休憩時間に、歌手がいると話しをして本が読めず、いらいらして落ちこんだりしましたし、歌手を無視して話しをせず本を読んで歌手に嫌われたことも何度もあります。「読む」ことは、本当は一番に来る課題かもしれません。それほど簡単で、お金がかからず、乗り物や待ち時間やお茶を飲む時間を利用して読めるので、そのために時間を取らなくても毎日ある程度は確実に読めるからです。勉強するうえで確実に消化できる課題ほどありがたいものはないですからね。

でも「読む」にしてもいつもうまくいくとは限りません。難しくて読めないようなものもいっぱいあります。そういうときその本を諦めたり、歯を食いしばって最後までいったり、途中でやめてしばらくして再挑戦したりと、いろいろです。でも気持ちよく読めていい気分で次へ進めるのはいいことですから、僕はいつもそういうものを慎重に選んでいました。とくに30代から40代くらいは僕は好きなものしか読まないようにしていました。ジャズ、麻薬、マフィアなどの実録もの、ポルノ、哲学思想、自然散策紀行文など。19世紀イギリスの古典ポルノなど電車の中で目をランランと光らせて読むなんてこともありました。ジャズ、麻薬関係も多く読みました。30代半ばくらいから小説は一切読まなくなりましたね。一度だけ「チャタレイ夫人の恋人」を原文で読みましたが、どこが猥褻裁判で大騒ぎしたのか判らないくらいにおとなしく退屈で、それからほとんど小説は読んでません。『110番街』なんていう映画がはやった頃にハーレム犯罪シリーズという連作があり、ジャズ、麻薬、犯罪などでグチャグチャになるやつですけど、それは何冊か読みました。そもそも僕は16歳ぐらいから30代半ばまで(日本語の本で)重度で重症の文学漬けになっていましたが、英語の本を読み始めてからは、どういうわけか僕の読んだ小説、文学作品は非常に少ないです。それは英語とは関係なくて、僕のなかで関心が変わり、文学離れが起きたということにすぎません。とにかく読む意欲というのは大切で、そのために自分の関心の強いものを選んでいくということはとくに重要です。その代わり、僕は案外ジャンルに制限がなく、学術的なものから発禁になるような最低のものまですべて読みます。固いものが続くと、あとはドロドロ猥褻文献などを読んで、調整(?)しましたね。そういう体質は今でも少しも変わっていません。

さて次に、もし最大限省くとしたら「読む」も省いていいかもしれないですが、順位1「聴く」は省けないということです。この場合「聴く」はレコードを聴くではないです。英語の映画、ドラマ、ニューズ、その他の番組などを「聴く」という意味です。もう一度言いますが、これはもっとも怠惰でずぼらなジャズ歌手が、省けるものはすべて省き、それでも英語が上達する方法がないか、もしあればそれを伝授してあげようと、無理な試みをしています。断っときますが、これは無理で無謀な試みです。でも大変重要ですから、しっかりと頭にたたき込んでください。「聴く」は省けません。とはいえ昔と較べて今は天国みたいにいい時代です。TV番組なんか二カ国語でやってくれますし、衛星放送やケイブルTVなどと契約しておけば、一日中英語番組を聴き見られます。まさに素晴らしい時代ですね。フランス語やドイツ語などほかの言葉はこうはいきませんから、ホントにありがたいです。やろうと思えば一日中自分を英語漬けにすることができるんです。

松本道広さんという英語の先生がいます。彼は大阪(たしか)にいて米軍放送が聴けなくて、30、40年前に上京したときに小さなラジオを買い、一日中イアフォンを差したまま電車に乗ったり歩いたりしていたと本に書いてました。東京に来て英語の放送を聴けるのが、心の底から嬉しくて夢のようだったと書いていました。ではいま関東にいるジャズ歌手がどれほど米軍放送を聴くか、あるいは英語のTV番組を見るのか? いや無駄な問いは省いて、先を急ぎましょう。「聴く」というのは受動的な行為なので、ラジオでもいいですね。ラジオには、文化放送の夜中などにとてもいい英語番組をやっていますし、ほかにも英会話番組など少なくないです。僕は自分の生徒に「そういう英語番組をすべて録音しておいて、それを通勤や車の運転中や便所や風呂の時間に聴け」とよく言いました。それならお金がかからないし、会話スクールに通う手間も省けるし、時間もかなり節約できて、いいことずくめです。でもそれを実行した生徒は一人もいません。実行すると言った生徒は少しいましたが。でもたとえこういうことをしてもその番組の内容を100%解釈し吸収するなんてことはできません。それでいいんです。半分くらいしか頭に入らなくても、30%しか入らなくても、それでもいいんです。元々こんなもの全部入るわけないです。20%でもすごい量で大収穫です。それから最近は英会話CDなどをかけて、声の高さはそのままに速度を落とすことができる機械も出ています。本当にいい時代です。勉強しないと罰が当たるほど至れり尽くせりの時代です。

最初のうちはドラマは難しいですね。ニューズが一番手っ取り早いです。なによりも内容をたいていは日本の新聞やTVニューズで知っているものが多いですから、英語のニューズは聴きとりやすく解釈しやすいです。それから大リーグの野球中継なんかいいですね。判りやすいし、あまり多くを喋りませんし、難しい言葉が少ないです。もちろんサッカー中継でもいいです。映像がついていると解釈しやすいですから、英語を聴いていても楽ですね。衛星放送やケイブルTVではいろいろな番組があり、飽きません。子供番組でも漫画でも、自然探訪のような番組でも、スポーツでも、とにかく自分の好きなジャンルを見るのがいいです。その方が関心が保てますし楽しいですし、なによりも長続きします。英語の勉強における、この「長続きさせるために関心が強いもの楽しいものを選ぶ」ということは最重要です。これは絶対に忘れてはいけません。自分の怠惰さと勉強の難しさを甘く見ないために絶対に必要なことです。自分がだらしないこと、怠惰なこと、飽きっぽいことなど、僕はそういう自分を誰よりも良く知っていて、それだからこそ自分が好きで関心が強く楽しいものを選ぶわけです。これは勉強の鉄則です。

今の人間は二言目には時間がないと言うんですが、時間がないというのは嘘です。時間がないと言いながら、ほかのやりたいことはすべてやっているわけですから、もちろん嘘です。だから最低でもなにかをしながらこういう番組を聴くのがいいですね。僕はTVニューズやその他の番組を一年中英語に設定して、家にいるときぐらいは自分を英語づけにするようにしています。それじゃ意味が全然判らなくてイライラしてしまうから、やっぱり日本語に設定してという人は、はいご苦労様、歌手をやめる方法を考えてください。僕は、偉そうなことを言っていても、英語は恐ろしく下手です。アメリカ人と話すといつもがっくりさせられますね。いまファーラウトのキッチンに入っているNathanの英語は、非常に癖のある聴きとりにくい英語です。僕が会ったことのある純然たるアメリカ人では、彼はもっとも聴きとりにくい人だと思います。僕は彼の言っていることの6、7割しか判りません。僕も下手でどもりながら、つっかかりながら話します。最近は少し彼の英語に慣れてきました。やはりアメリカ人のMinahは彼の英語を「独特のアクセントのある英語」という言い方をして、もちろんけなしたり、下手だなどとは言いません。この「アクセント」は日本人が言う「訛り」とは少し違うかもしれません。だから英語は大変です。アクセントが多種多様で、世界中のアクセントに対応しなければならないです。

つまり、英語を喋る聴く感覚というのは、どんなアクセントにも対応し、相手にどんな変なアクセントだと思われても気にせず、意味を伝える、言いたいことを相手に言う、それだけのことに恥も外聞もなく専念できる、そういう心、態度のことなんです。どもってもつっかかってもなにも問題なし。とにかく恰好なんかかなぐり捨てて、話したいことを相手に伝える、(上手い下手なんかどうでもいい)それが「英語をしゃべる聴く感覚」なんですよ。もしそれができたら、相手の英米人は、その英語がどんなに下手でも、文法が滅茶苦茶でも、「きみはなんて英語が上手いんだい!」と褒めるでしょう。下手な英語で喋るとき恥ずかしいと思うのなら、あなたはまだこの「英語をしゃべる聴く感覚」をもってないんです。

ジャズ歌手にはたくさんお目にかかりますけど、そのなかで、この「英語を喋る聴く感覚」をもっている人は10%もいないでしょう。5%以下かもしれません。90%以上がはっきり言ってダメです。この「英語をしゃべる聴く感覚」をもっている人も、べつに上手いわけではないんです。上手くはないけど「英語をしゃべる聴く感覚」をもっていると感じさせるんです。ジャズ歌手ならば、最低でもそう感じさせなければならないでしょう。ファーラウトに出演したこともあり、ときどき客として来るTonyはもちろん英語を話しますが、英米、インド、香港などとも、オーストラリア、ニュージーランド風ともまた違うアクセントで、なにか不思議な印象を僕はもっていました。よくきいたら、彼はマレーシアで育ったと言います。英国風でもなく、英国植民地風とでも言うんでしょうか、これまた独特のアクセントです。彼は歌うんですが、失礼ながら聴いていてその歌はお世辞にもうまくないです。しかしやはり英語はよく聴きとれました。素朴で言葉の意味を直接語っているような歌で、聴いているとなにか楽しくなります。歌としては面白く楽しいし、気持ちがよく伝わる、そんな雰囲気です。それが「英語をしゃべる聴く感覚」でしょうかね。もう一度言いますが、下手な英語で喋ってそれを恥ずかしいと思うなら、あなたは「英語をしゃべる聴く感覚」がないんです。なんと思われようと話したいことを相手に伝える、上手い下手なんかどうでもいい、そういう気構えになれたら、それはあなたが「英語をしゃべる聴く感覚」を身につけてきたということです。ジャズ歌手に必要なことはただそれだけです。

さて4「書く」、3「話す」、2「読む」、1「聴く」と順位をつけて、ずぼらで勉強が苦手なジャズ歌手が英語を勉強するとしたら最小限度やるべきことを話してきました。最低でも1「聴く」はやらなければなりません。最初のうちは英語でテレビが鳴っていてもなにも判らなくて、すぐに面白くなくなりますし、イライラしてきます。でもガマン、ガマン! とにかくガマンして聴いていると、あるときニューズなんかで「littleリトル」という単語が良く聴きとれ、リではなくあとの方のルのL音が鮮明に聴きとれる自分に気づき、ドキッとするほど嬉しくなる、そんなときが来るでしょう。まさにそういうときがあなたの本当の英語の旅の出発点になるんです。僕も米軍放送を聴いていて、あるとき「littleリトル」のルのL音を聴いて、初めてL音に気づいたんです。それは、学校や本で習う発音や理屈ではなく、実際の音としてL音を初めて自分で認識したという意味でです。R音でもなく日本語のラ行でもなく、本当のL音です。というわけで最後に少し専門的で難しい話しをしてみましょう。

L音はやや周波数が高いです。日本語の特徴は、その言語音の周波数が低いことにあります。もっと正確には、言語の周波数を高域、中高域、中域、中低域、低域と五段階に分けると、日本語は中域から中低域に集中し、中高域も少しはあるけれど、低域と高域はほとんどない、そういう特徴をもっています。厳密には、昭和前期以前の昔の日本人が喋る日本語は、もう少し周波数域が広く、高域、中高域も現在のわれわれが話す日本語よりは多く含んでいたでしょう。それだけ現在の日本語音は無味乾燥になり、美しさを欠き、実用的な意味伝達にのみ集中し、音としての美しさの多くを失ったと言えます。それに対して英独仏語のような西洋語は低域から高域まで満遍なく使い、その音としての表現力が多様なはばをもっていると言えます。L音は日本語にはない高い音の子音です。そしてこの「高い」という意味は、高い倍音が多く積み重なっているということを言っています。L音の日本語にはない高い子音としての音を、本に書いてある理屈や解説としてではなく、中高校などの日本人の英語の先生の発音としてではなく、本当の音として自分の耳で捕らえられたとき、それがあなたの長い長い英語の旅の出発点になるんです。そしてもしそういう自分の聴くという感性に、驚きや喜びを感じたら、あなたは「英語をしゃべる聴く感覚」の最初の一片を自分のものにしたと言えるでしょう。勉強を苦痛だと思っているあなたは、まだ勉強が足りないだけです。まだ勉強が何たるかは判っていないんです。勉強はいったい何ですか? 勉強は喜びなんです。なぜなら勉強をして得られた成果は、すべてあなたの血となり肉となるからです。もしあなたがある時、勉強をしていて勉強が喜びだと感じられたら、それこそあなたの勝利の瞬間です。

2008/10/23  村尾陸男


受験英語の時代から苦労の種。試験では特に母音の相違を問う設問多く、此れにばかり気を取られて来ました。しかし子音がカギとの鋭い指摘に思わず唸って仕舞いました。オイラの英語が通じぬ訳だ。英語は子音が2,3字連続するのがザラでしたね。これは我が国語では経験してません。「マッカーサーの犯罪」を書いた西鋭夫氏が米国留学体験を語っていて、とくに英語に関してナルホドと感じました。教授が予習すべき本を挙げ、次回学生達の討論。西さん全く付いて行けず沈黙。所がレポート提出では、米人学生よりも文法・単語の綴りが正確で素晴しい文章を書き、教授に「西、こんな立派な英語を書くのになんで喋らんのか」と言わしめたとか。どの位経ったか、忘れましたが、ある日 西さん討論に突如参加、米人学生を圧倒(このクダリには私不覚にも落涙)。一同、仰天。「西、何があったんだぁ」。彼曰く、ある日突然、頭の中で脳の何処かと何処かの配線がスーッと繫がったのだと。私の様なゼロからの jazz入門者にヒントは無いかとこのページを読んでました。有難う御座います、有りました。上手い下手を気にせず、ジャス語を歌い続ける事ですね。文法であるコードまたその他に就いての本をつい 読みますが、此れがいつの日か脳の何処かで配線が繫がり、怒涛の如くアドリブソロ。てな具合には・・・行かないもんでしょうか。夢のなかででも良いからソロ弾きたいんです。 吉村満09/10/7

英語がダメ、と村尾さんに2度ほど言われて、どのへんかなと自分なりに考えていました。多分、thの発音とか語尾の発音がいい加減なところとか、イントネーションかな、と思っていたのです。

子音の発音、それに、もっともっと深いことでしたね。ありがとうございました。話すチャンスはほとんどありませんので、もっと英語を聴くように心がけます。10/27/09岩橋百合

ジャズ詩大全

やっとジャズ詩大全20が出版の運びとなりました。3月1日に都内の主な書店に出てきて、3日ぐらいまでには、全国の書店にも行きわたるでしょう。書き上げたのが昨年の7月あたりで秋には出版の予定でしたから、結局半年遅れです。まあ今としてはこれで普通なんでしょう、待ち望んでいた方にはご迷惑をかけましたが。それでも僕自身は20巻はいったい書けるんだろうか、出せるんだろうかなんてずっと思っていましたから、これでホッと一安心です。1巻を出したのが1990年ですので、計22冊に20年かかった勘定です。途中何度もやめようと思いました。やめないで最後まできた(まだ続けてくれという声はあちこちで耳にしますが)のが不思議なくらいです。

このあともう一冊、別巻扱いですが、索引集を出そうと考えています。各巻についている索引は、頁数に限りがあるので、ほんの少々の簡略版でしかありません。そこで全巻を通しての索引を出さなければならないのですが、全巻索引はとてつもない膨大な量になるので、これも出したとしてもやはりある程度は必要、重要項目に絞った簡略版になります。それでもかなりぶ厚い索引集になると思います。そしてそれだけではなにか魅力に欠けるので、索引集におまけとして僕自身のジャズ詩大全校了記とでも言うんでしょうか、後書きとか感想をつけようと考えています。ジャズ詩大全を書いていて苦労したことや感じたこと、また本には書けなかった僕自身の感想、印象のようなものです。そんなことでさえ悉く書いていけばまたかなりの量になるので、いったいどの程度のものにすべきか、それもまだ検討中です。

アメリカのネットでジャズ・スタンダード曲について調べたりしていると今は結構稚拙でひどい記述にぶつかりますが、それはスタンダード曲に関する事象はすべて1950年代くらいまでのもので、それらを演奏したり歌ったりしているレコードも新しくても60、70年代くらいまでのものがほとんどで、いずれにしてももうすべてが4、50年以前の話しになります。そしてネットに書き込みをしたり編集したりしている人たちは、ほとんどがそれ以後に生れ育ってきた世代なんでしょう。ですから作曲家、作詞家、演奏者、歌手の人名の綴りもしばしば違っていますし、映画やミュージカルへの言及も間違っていたりします。彼らはなにも知らないんでしょう。なにもかも遠くなりにけりです。日本でも今は有名なジャズ歌手が有名なスタンダード曲を歌って、その感想に「初めてこの曲を聴いたのは××のTVコマーシャルでした」なんてマイクで言います。僕は内心がっくりきますね。映画でもミュージカルでも有名なLPでも隣の局がクロスしてくるボロッちいトランジスタ・ラジオで聴く深夜放送でもなく、TVコマーシャルです。

逆に言えば、今の人たちは可哀想です。ジャズのいい曲や演奏、歌を聴くのに、TVコマーシャルしかないからです。昔はラジオでもジャズは多く聴けましたし、ときにはTVでもジャズ番組がありました。カナダのジーン・リーズGene Leezという音楽評論家が言ってましたが、昔はラジオでジャズからクラシックから、シャンソンやカンツォーネやラテン音楽など世界中の音楽をたくさん聴けて、子供が育ってくるときに自然にそれらの音楽的教養を身につけることができたが、最近の子供はTVコマーシャルでもコンピューター・ゲームでも駅のアナウンスでもあまり変わらないガラクタ電子音楽しか聴けないから、音楽的教養を身につける場所がまったくない、と言うんです。今はまさにそういう時代です。ならばファーラウトに来て、まずは生の音楽のなかに身を置きましょう。
ファーラウト3/2010のスケジュール案内より

 ジャズ詩大全を書き始めたのは1990年のことでした。それまで英詩解釈講座なんていうタイトルで小さな教室を開いて、英詩の勉強会みたいなことをときどきやっていたんです。それは歌手のマンションの一室を借りてやったり、クラブの昼間を使わせてもらったりで、細ぼそとやっていました。生徒が一人も来ないなんてこともよくありましたから、料金を払ってどこかの部屋を借りてやる余裕はなかったんです。
 あるとき知り合いが出版社の社長を紹介するというので、音楽関係の洋書を5冊ぐらいもって会いに行きました。僕はそのなかのどれかを翻訳出版したかったので、そういう出版社を探していました。その社長さんは吉開(よしかい)さんという方で、九州の人でした。家が神主で、吉(きち)を開くというお名前です。凄い名前ですね。それで僕の吉が開いたと言えるかどうかは微妙ですけど、そうとっておくべきかもしれません。彼はもっていった洋書に無関心ではなかったものの、パラパラとやって検討しましょうなんていう無難な返事をくれました。そのとき僕は、自分で作ってもっていた手製の英詩解釈講座のパンフレットをそばに置いていたんです。彼はそれに目をやり、それはなんですか、と訊いてきました。
 それでなにげなく、僕はそれについて一通り説明しました。あまり力は入りませんでした。英詩解釈講座は何度かやめようと思い、実際にやめたりし、また再開したりしてやっていましたが、とにかく儲からないし、ときには損をすることもあるうえに、なによりも時間がおしいです。彼が英詩解釈講座に興味を示したときも、僕はなにも感じませんでした。ところが彼はこれを本にしたらどうかと言い出したんです。僕は笑って、無理でしょうね、とそっけなく答えました。著作権など制約が多いし、第一そんなに売れないだろうし、労多くして益するところ寡少で、まあやめといた方がいいでしょう、なんて僕は言ったと思います。でも社長はひきませんでした。彼はその道のヴェテランで、出版のことには精通しています。しかもジャズや音楽関係の書物の専門家です。やめといた方がいいでしょう、なんてなんと失礼なことを僕は言ったんでしょう! いま思うと少し恥ずかしいです。
 彼はひくどころか大いに乗り気で、結局そこから「ジャズ詩大全」なるものが実現することになったんです。タイトルを決める段階でいろいろなものが出されました。「英詩解釈講座」も一つの候補でした。でも彼がなかなか納得しません。僕はイギリスの釣りの本でThe Complete Anglerというのを思い出し、それを訳した昭和の初めか大正くらいの本のタイトルは「釣魚大全(ちょうぎょたいぜん)」というものでした。「大全(たいぜん)」は古くからある立派な日本語で、あるテーマを完璧に解釈、解説した本という意味です。全集という言葉に大をつけたものではありません。大全集といういい方はありますけど、「大全(たいぜん)」とは関係ありません。従って「大全」は必ず「たいぜん」と読まなければならず、だいぜんではありません。でも今の日本人は10人中9人ぐらいがこれを「たいぜん」とは読めませんね。僕は「ジャズ詩大全」はどうかと提案しました。やや大げさすぎて、僕自身はあまり乗り気ではなかったです。しかも僕はタイトルなどどうでもよく、出版できればそれでよしとしか考えていませんでした。吉開さんはこれに飛びついてきました。彼の古臭さと商売感覚とにピッタリ合ったんでしょう。こうして僕自身が考えてもいなかった「ジャズ詩大全」が誕生しました。
 ジャズ詩大全については、僕自身が考えてもいなかった意図してなかった結果、効果が、あんがいどこまでもつきまとっている気がします。ちょっと不思議なんですがそうなんです。英詩解釈講座は正直に言えば金儲けが動機で始めたんですが、もちろん金儲けにはならず、ほんの雀の涙ほどの生計の足しでした。それで今度はジャズ詩大全を始めましたが、これも金儲けが動機で始め、やはり金儲けにはならず、雀が鳩になったぐらいでした。最初のうちは張り切って書いてました。参考書は日本ではなかなか手に入らないので、それが一番苦労した点です。ナット・シャピーロウの《Popular Music》という年代記のような本がありまして、どうしてもこれが必要なので、あるとき伊勢佐木町の有隣堂から取り寄せてもらいました。1900-1919、1930年代、1950年代、1960-64、1965-1969の計5冊(あとは在庫切れ)を注文し、2、3ヶ月かかって届いたので取りに行きました。驚くなかれ、1冊19,800円です。1万円以上の本は何度も買っていますが、これはいままでで最高額ですし、こんなものを一度に5冊買ったのも記録です。売り場の女性店員が「1冊1,980円です」などとぬかしおって、コノヤロー、ムカッーときましたが「よく見てよ!」と言い、「あ、え、えー、い、い、1万・・・」という具合でした。計99,000円、目から火が出そうな高熱状態で払いました。
 洋書店は有隣堂と青山と丸善と銀座のイエナを巡っていましたが、イエナが映画や音楽やアートなどは一番よく揃えていたので、イエナへ行くことが多かったです。と言っても一回行くと10冊、20冊と買ってしまうので、お金がない身としてはそうそうは行けず、数ヶ月に一度くらいでした。どっちにしろ買うときは血の出るような思いで買いますから、買って帰るときは嬉しいような悲しいような複雑な思いでしたね。イエナもものによってはかなり高かったです。20ドルの本が安くて3500円くらい、高ければ4000円、5000円、あるいはそれ以上です。元の定価のドルと売値の円と計算してあまり高くないものを買いました。90年代の10年くらいは、本当に僕はイエナのいい客だったと思います。
 さてジャズ詩大全は、5巻くらいまではかなり一所懸命に書いていました。そのあと6巻から9巻くらいまでは、いろいろな理由が重なって、あまり気が入っていません。自分でこういうことを言うのもひどいですが、これが正直なところです。その間《スポーツ精神》だとか《ティ・フォー・トゥー物語》などのほかの本を書いていたことも影響しています。それが10巻あたりからまた少し気が入ってきます。それは自分のもっている資料が増えてきて、書きやすくなっていったことが関係しています。資料が増えてくる背景には、90年代の終わり頃からインターネットが普及してきたことがあります。具体的には、インターネットの普及でアメリカから直接古本を買えるようになってきたことです。ある本を古本サイトで検索し、それを見つけてクリックすると、アメリカ全土の古本屋から在庫がリストアップされ、値段順に並べられ(たいていは一番やすいものを買います)、カード払いで買い、当時は船便があってそれが1冊につき3〜5ドルくらいの送料で入手できました。それで僕はBarnes and Noble(のちにはAlibrisも)という古本屋サイトで古本を始終買っていました。そういう本は、たとえばアメリカの全土からBarnes and Nobleのニュージャーズィの本社だか支社だかに集められ、一括して船便で送られてきたんです。そういう荷は早くても1ヶ月半くらい、遅いものでは3ヶ月ぐらいかかりました。というわけでその頃わが家には常時、ほぼ定期的に段ボールの箱にぎっしり詰められた洋書が届けられていました。
 僕は本をたくさん抱えてきました。いつもいつも本の多さは僕にとって悩みの種でした。もちろんレコードも多いです。最近は買うのを控え、滅多に買わなくなりましたが、それでもLPレコード900枚、CD1300枚、カセット900本くらいはあります。ヴィデオ類もすごい数です。それに本。本は何回もおおはばに処分してきましたが、それでも多く、いったい何冊あるのかもう判りません。勘定する気にもなりません。日本語の本はもう15年くらい前からまったく買わなくなりました。洋書も5年くらい前から買うまいと決めてやってきてはいるんですが、やはりなにかいいものがあると買ってしまいます。今年になってからもアメリカに住んでいる娘に送ってもらうやり方で、50冊ぐらい買っています。そのほかに日本のアマゾンでもタップリと買っています。そんなに買っても読む量は限られていて、買った本の2割も読めればいい方でしょう。収集とか蒐集というのはだいたいバカのやることです。内容に興味のない奴が、見た目だけでものを集めるような病です。愚かでみっともない、やらずもがなの悪癖です。
 ところでインターネットの普及は、世界の壁を取り払ってしまい、距離を近づけてしまいました。それは同時に時間をも短縮したのかもしれません。つまり船便がなくなり、いまは航空便だけになってしまいました。それでBarnes and Nobleでは1冊3〜5ドルくらいの送料で買えたものが、1週間ぐらいですぐに届くものの、最近では1冊20ドルくらいに一気に上がってしまいました。2ドルの古本を買うのに20ドルの送料を払う、いまはそんな時代です。でもそのおかげで古本はおいそれとは買えなくなりました。アマゾンが送料をタダにする購入額を99ドルから49ドルに下げたときは全米のニューズで流れましたけど、日本に乗りこんできて、いまはなんとそれが1500円です。アメリカから1500円の重い分厚い本を買っても、その本のあるところからアマゾンの拠点(フロリダでしたか)まで運び、さらにチャーター機で日本まで運び、ウチまで配達してくれて、その三つの送料がタダという恐るべき戦略です。ほかの本屋が勝てないのは言うまでもありません。イエナに行くと店内にいつも人がびっしり埋まっていたのが、誰もいなくて僕ともう一人くらいなんてことが二回ほどあったのはたしか7年くらい前でした。次に行ったときはもう閉まっていて、50年の歴史に幕を閉じたと貼り紙がしてありました。アマゾンは本屋やCD屋をなんと多く潰したことでしょう。そしてそれ以来なんと多くの本を僕はアマゾン経由で買ってきたことでしょう。自分ながら呆れます。
 ただとにかくこのジャズ詩大全のためにこそ、1997、8年あたりから、僕はジャズや作曲家、作詞家、ミュージカル、映画関係の書物(たいていは古い絶版ものですが)を、買いあさってきました。おかげで僕にとっては夢のような素晴らしい資料が次から次へと揃っていきました。それに要したお金は大変な額になるでしょうが、まあ背に腹は代えられず、仕方がありません。それで最近は、ウチの中が洋書だらけで動きが取れなくなってきたのと、それら資料をどの程度読めるか、どの程度使いこなせるか、という点に問題は移ってきました。本もレコードも同じようなもんで、いくらたくさん買っても読めないですし聴けません。CD類は1時間弱で聴けますから聴くことはできますが、本当に隅々までくまなく聴くにはやはり何度も聴き、ときには楽譜に書き取ったりしなければならないですね。
 本は読むには時間がかかり、しかも英語でなかには歯が立たないくらい難しいものもあります。でも買った以上は読みたいですから、最近は東京方面へ行くときは電車で行くようにして、往復の時間で本を読んでいます。いやそんなことはどうでもいいです。ジャズ詩大全シリーズは、12、13巻あたりから、かなり内容が精密になって充実してきます。それはなによりもこれら豊富になって揃ってきた資料のおかげです。アーヴィング・バーリン曲集別巻のときは、バーリンの分厚い伝記を5冊ぐらい買いましたから、結果としてこの別巻はやや厚い巻になりました。クリスマス曲集別巻の改訂版も、50曲も網羅して、さらに分厚く精密なものになりました。でもこの僕の裏側での苦労を本当に判ってくれる人は少ないです。
 ジャズクラブ/ファーラウトを開店してから英詩解釈講座を月に2回やり、生徒があまり来ないので途中で1回にし、それでもなんとか続けていたんですが、生徒が一人も来ないことも多くなり、とうとうそれもやめました。なにせ生徒が来ないですし、来てもその講座の内容がお粗末で、退屈至極です。ジャズ詩大全に書いてないようなことを、鋭くグサッと質問してくるような生徒は全くいません。丁寧に講座をやっても反応があまりないですし、彼らがとくにありがたみを感じているようにも見えません。そして僕自身もたいていは苦痛です。それでもうやめるしかなくなりました。<私もいつもあの英詩解釈講座に行きたいと思っています>なんて僕に話しかける人は多いですが、そういう人はみんな、あのレッスンには生徒が殺到していて、いつも20、30人は来て活況を呈していると思っているようでした。<いつも行きたいと思っています>ととびきり上等の笑顔で振りまく社交辞令と、実際に来ることの間には、月とスッポンくらいの差があるんですね。最後の年2007年は年間(月ではなく)で来た生徒は10人くらいでしょう。
 あるときたまにお遊びで歌を歌っている女性が、僕に「村尾さんは店の雑事などせずに、英詩解釈講座で悠然と講義をしたり、研究を続けることに没頭してほしい」と言ったことがあります。店は死線をさまよっている状態で、彼女は英詩解釈講座に1、2度来ただけで、そんな夢みたいなことを言います。彼女が英詩解釈講座にいつも来ていて、絶対にやめてくれるなと言うのならすじは通りますが、そうではないですし、僕のこともほとんどなにも知りません。店はすれすれの状態ですが、彼女は店の経営や内部のことまで口出ししてきます。このときはよほど僕の虫の居所が悪かったんでしょう、僕はメイルで彼女に怒りをぶつけ、多分これが最後のメイルになるでしょうと書き、「あなたも残念なことに、僕が本当はなにをしようとしていて、なにを考えていて、次にどんな本を書きたいと思っているかなど、まったく無関心で考えたこともない、僕の回りにいる多くの人と寸分変わらない一人でした」と結びました。彼女はそれからメイルも寄こしていませんし、店にも来ていません。言っておきますが、お客さんにひどい態度で接するなんてことは、僕は一度もしていません。この場合だって礼を失しているというわけではないです。
 でも今までにジャズ詩大全のことでお客さんに言われて嬉しかったことがあるにはあります。一人は40歳くらいの女性で大阪で国語の先生している方、もう一人は僕の知り合いで70歳くらいになる音楽関係の仕事をしている男性です。二人とも、ジャズ詩大全を褒めてくれたあとに、なにげなく「なんと言ってもあのなかの日本語の文章が素晴らしい」と言ってくれたんです。それは僕が一番気にしていることでもあります。もちろんあのなかの個々の曲や論点について、いいとか悪いとか言ってくれたら嬉しいに越したことはないですが、そういうことを言ってくれる人はいません。たとえばアレック・ワイルダーの《American Popular Music》という著書から彼のアメリカ・ポピュラー音楽についての見解を、これは読んで解釈することすらおいそれとはいかない難解な代物ですが、僕は随所で紹介しています。そういう彼の意見、またそれに対して僕が述べている感想や見解など、そんな問題に触れて鋭い批判や質問を浴びせてくる人がいたら、僕は嬉しくなって1、2時間その人と話しこんでしまうでしょう。でもそういう人はいません。まったくいません。だから僕自身も周囲にそういう意見や批判をあまり期待していません。従って「あのなかの日本語の文章が素晴らしい」という感想は嬉しかったです。と言うよりも感想自体を、どんなものでもいいですからもっていてはっきりと述べてくれる人は、僕は好きになってしまいます。
 もう一つ言っておかなければならないことは、「日本語の文章が素晴らしい」ということは、ジャズ詩大全の内容と無関係ではないんですね。英語を解釈し訳す場合、英語を理解することがまず大きな課題だということは言うまでもありませんが、理解したことを日本語にすることも負けず劣らず大きな課題です。われわれは日本語で考えものごとを理解するわけですが、あることを日本語で理解できなければ、それは絶対に理解できていないわけです。ですからある英語の文を理解するには、英語の読解力がまず一つ、そして日本語でそれを論理として読解できるということがもう一つ、そして最後にそれを日本語で誰でも理解できるような綺麗で正しいものに仕上げなければなりません。たとえば The anger she had boiled in her mind was painstakingly sublimed into a song. という文章があったとしたら、これは僕なら〈彼女の心のなかで煮えたぎった怒りは、苦吟のなかで1曲の唄に昇華されていった〉と訳します。sublime〈昇華する〉は辞書を引けば出ていますが、昇華の意味はほとんどの日本人は知りません。ときには翻訳を業としている人でも知りません。〈苦吟〉も読めないし判らない人がいるかもしれません。ですから訳が読まれる層を考えて〈彼女の心のなかで煮えたぎった怒りは、苦しみつつ1曲の唄へと仕上げられていった〉と変えるかもしれません。
 ニーチェは〈人は自分の理解できる範囲内でしかものごとを理解できない〉と言っています。これは鋭く真実を射ていますね。ジャズを聴きはじめた頃にさんざ聴いた5、60年代のハードバップのレコードなど、20年位して聴くとかなり隅々まで判って、ああ彼はこういうことをしていたのかなんて再認識して僕は驚いたことがよくあります。コード、音、キー、奏法などいろいろなことが判るようになって同じレコードを聴くと、聴ける内容がガクンと増え、理解の度合いがぐっと増します。でも最近ファーラウトの有線放送がその頃のレコードを流すもんですから、聴いているとまたそれから20年以上経っていて、僕の聴く能力が変わっているのかいろいろと発見があります。一つのレコードをとってみても、聴く人の理解する能力の進歩に伴って、その理解の深さが変わり続けます。理解したと思うことは、ある意味では怖いことです。だから英文の読解とは、同時に英語と日本語の両方の読解であり、しかも訳となれば完成された見事な日本文に仕上げなければなりません。つまり英語を訳すという仕事の半分かときにはそれ以上が、日本語をどれほどしっかり組み立てられるかにかかっているわけです。数年前あるアメリカ人の学者の書いた水に関するベストセラー本を訳したものを出版社からもらったので読んでみました。アメリカで大変話題になった本です。しかしあまりの日本文の悪さに、途中で読むのをやめました。日本語の文がメチャメチャで意味が判らないんです。これでは売れないでしょうと出版社には返事をしましたが、やはりそれは売れていません。この訳者は日本文がまずいだけでなく、原文もほとんど理解していないでしょう。というわけで「日本語の文章が素晴らしい」ということは、僕には大きな褒め言葉になるんですね。
 さてジャズ詩大全にもどって、10巻から16、17巻くらいまでは力が入っていいものができていると思いますが、18、19巻、クリスマスなどの最近巻は、ファーラウトを始めたこともあって、どうも時間的に苦しい著述になっています。とくにクリスマス曲集はよくできていると思いますが、同時に非常に苦しんでいます。苦しんではいますが、いずれにしろその中の曲について誰かが細かい質問など浴びせてきて、僕が答えに窮するなんてことはほとんどありません。残念ことですが起きません。それは、ほとんど生徒が来なくなり、英詩解釈講座が立ち消えになっていったこととも符合します。そして僕はこの数年で、自分のなかでジャズ詩大全を書く意欲が急速に萎えていくのを、感じざるを得ませんでした。英詩解釈講座はやめましたが、ジャズ詩大全もそろそろやめるときがきていると思います。なによりも僕のなかに、書こうという意欲や闘志がもうありません。ですから計22冊(別巻2)のこの第20巻で終わるのは、ごく自然で妥当なところでしょう。
 つい最近も久しぶりにある女性が店に3人連れで来て、僕を連れに紹介するのに「ジャズ詩大全で財産を築いた方」と言います。そして彼女は冗談半分で、あれは高いから買えないとか、ただでちょうだいとか言います。それに対する答えとして、もし僕があれで財産を築いたのだったら、いま最初にやることはなにかということを、ここで言っておきます。

 それはなにかと言うと、すぐにファーラウトを閉めることです。すぐ迷わず明日にでも閉めます。金がないからやっているだけです。財産を築いていたのだったら、そもそも僕は商売なんか絶対にやりません。商売は僕のなかではもっとも遠いところにあるものです。

 そしてこういう馬鹿なことを言う者が周囲にうんざりするほどいるので、むしろその反動から、ジャズ詩大全は、いつのまにか僕のなかで、もっとも退屈でくだらないどうでもいい事象になってしまいました。べつに意識してそうしているわけじゃないですが、自然にそうなってしまったんです。僕の言動を近くで見聞きしている人たちのなかで、敏感な人には判るでしょうが、僕が自分からジャズ詩大全を話題にすることはありません。誰かが話しに持ち出すと「あー、そう」なんて人ごとみたいに答えますけど、自分で話しを持ち出すことはまったくないですね。僕という生身の人間にとってもっともどうでもいいもの、それがジャズ詩大全なんです。
 しかし、ジャズ詩大全は僕にとってマイナスばかりで、いいところがなにもないみたいに書いてきましたが、もちろんそれは言い過ぎです。ジャズ詩大全を書くことによって、僕が得た利得について今度は少し書いてみましょう。お金ではありません。お金になっていたら、僕の人生は変わっていたでしょう。その収入は呆れるほど卑小な額で、人に言う気にもなりません。こう言うとたいていの人が信じませんが、もうそんなことはどうでもいいです。ジャズ詩大全を書いているうちに気づいたことは、その長いシリーズの半分くらいを過ぎたところで、とても自分の英語の読解力が向上したことです。最初のうちアレック・ワイルダーの難しい文章は歯が立たないことが多かったんです。しかし年がら年中開いていて、もうずいぶん前に表紙もぶっちぎれてしまってクズみたいなボロボロ体裁になってしまった彼の本が、ある時気がついたら僕はなに苦労なく読めるようになっていたんです。これには僕は内心とても嬉しかったです。そのほか、ミュージシャンや歌手や音楽評論家やプロデューサーや、そういう人たちの生の言動を(自慢にはなりませんが必要から)読んで読んでヨミヨミ読みまくりましたから、英語の読解に強くなるというだけでなく、ジャズやその周辺の音楽界全体のことをとても深く理解できるようになりました。自分ではそんなこと判ってらあなんてのぼせていたところがありますが、どうしてどうしてやはりこういう仕事をして自分が成長したところは大きいです。この仕事をしなかったら得られなかったような自分の成長とすら言えるかもしれません。
 もう一つ、文学や哲学などの学術的文献と較べて、こういう文献はどうしても内容的に浅いですし狭いです。でもしばらくこういうものを読んでいて判ってきたことは、そこに人間というものを読みとれればなにも浅くも狭くもないということです。僕は若いときはほかのものはバカにして文学や哲学しか読まなかったんですが、40半ばくらいから急速に文学、哲学から離れていきました。そしてこういうジャズその他の音楽文献を読んでいて思ったことは、そこにフィクション(文学、虚構)がないこと、理論や論理の積み重ね(哲学)がないことなんです。もちろんすべてではないですがほとんどは、基本的には事実を羅列し語っているだけです。これは音楽文献に限りませんが、科学や歴史や記録文献などもすべて基本的には事実を羅列し語っているわけです。僕は人生半ばから急激に虚構や理論が嫌いになってしまいました。人間が思っていること、望んでいること、期待していることなどどうでもいいんです。重要なのは人間がなにをしたか、なにをしてきたか、それだけです。人間とはどんなに崇高なことを"言って"も"考えて"も、実際に"している"ことがそれに伴わなければ、それを証明することにはならず、"している"ことだけがその人の本姓なんです。重要なのは"してきた"ことであり、なにを考えているか、どういうことをしたいか、なにを書いてきたかではなく、なにをしてきたか、それだけなんです。僕は急速にそういう方向へ変化し、本を読むなら実録、記録、伝記、自伝ものしか読まなくなりました。ジャズ詩大全を書くことによってそうなったとは言えませんが、ジャズ詩大全を書くことと僕のなかのそういう変化とは仲良く並行して進んでいきました。もしかしたらジャズ詩大全を書くことも一つの要因になったかもしれません。
 もう一つジャズ詩大全を書くことによって僕が得た利点は、一種の名誉かもしれません。名誉と言うと大げさですが、ときどきそういうものを周囲の人が僕に与えてくれることがあります。もちろんそう多くはありませんが、なにかのときに尊敬のまなざしで見られたり、なにかの恩恵に浴したりということがありました。本当に少ないですが、僕が意図していないところで、ジャズ詩大全は僕に報いてくれるわけです。それからファーラウトを経営し始めて、全然知らない方がファーラウトに来て、サインしてくれとか、お話しを伺わせてくれとかそんなこともありました。さらに洗足音楽大学で90分の講義を依頼されたこともあります。それに関しては、準備不足や、僕が音大生に対する講義にあまり慣れていなかったせいもあり、いいできとは言えないものになってしまいました。90分という枠を考えて、もっと簡潔に欲張らない構成にしなければならなかったでしょう。僕はこういうときどうしても欲張ってしまいます。そういう性格なんですね。その後青葉台の東急BEというカルチュア・スクールで月1回の講義を2期1年間やり、講義のしかたというものを少し勉強しました。英詩解釈教室は僕個人のもので、あまりにも自由に気ままにやっていましたから、講義とは言えないものだったのかもしれません。これらの講義で僕もかなり勉強し、今は少し講義上手になったと思います。
 ジャズ詩大全の恩恵は、少ないとはいえ、ファーラウトの営業にいくらかプラスになっていることは確かに否めません。そしてすれすれの状態でなんとかファーラウトを潰さずにやってきているわけですから、だとすればジャズ詩大全のもたらすプラスは無視すべきでないかもしれません。そうは言っても、やはりそれはジャズ詩大全にまつわる虚構のような"評判"や"人気"がそうさせてくれているだけで、ジャズ詩大全の本当の価値がファーラウトを持続させてくれているわけではありません。もしそうなら英詩解釈講座は満員で、週一回くらいやっても間に合わないなんてことになっていたでしょう。もちろんことはそう甘くはありません。ジャズ詩大全の恩恵はそのくらいのもので、それ以上のものではないです。
 2009年8月に、ジャズ詩大全第20巻をほぼ書き終わりました。前巻クリスマス曲集もきつかったんですが、今回はさらにきつかったです。精神的に余裕がないからですが、とにかく気が入らず遅々として進まず時間ばかりかかりました。ですからいまかなりホッとして気持ちが楽になってきたところです。大変ではありましたけれど、そのなかで[研究]として、<アレック・ワイルダー論>やを展開していて、これらの論点は僕が自惚れてもいいほどにそこで深く掘り下げて精密に語られています。自分の関心が強い部分にさしかかると、僕は一気に深くそこに入りこんでいき、抑えがきかなくなります。まいつものことですが。
 それでジャズ詩大全はどうなるんでしょう? 判りません。もうこれで終わりになるか、終わりに近づいていることだけは確かです。やめないでくれ、続けてくれという声をよく耳にします。でももう僕自身の体力、気力などすべて枯渇しています。はっきりしているのは、僕の関心がもうほかの方にいってしまい、これ以上書いてもいいものが書けそうもないということです。ここでやめるのは、いい時期ではないかと思います。そして僕にはまだやらなければならないことがいっぱいあり、これからそちらの方向に全エネルギーを向けることは、少なくともジャズ詩大全に19年間も心血を注いできた僕には、許されてしかるべきことだと自分では考えています。-----09/10/27

今日初めてこのサイトを見させていただきました。それで初めてメールさせていただきます。私は「ジャズ時大全」全巻持っています。10年くらい前にその存在を知ってから、(値段も確かに!!!でしたが、それに匹敵する)日本語の説明、解釈が嬉しくて、図書館で見るだけでは気が済まなくなり、思い切って購入しました。いつでも思い立った時にすぐに出せるところに並べて、新刊が出るたびに自分で索引を作ったものに追加をして、必要になると読ませてもらっています。いくら辞書で調べてもわからない、時代や、英語特有の言い回し、本当に私のような者にはありがたいです。たまに知りたいのに出ていない曲があると、「残念~、でも次の巻には載っているかも知れない・・・」と永いスタンスで楽しみにしていました。ですから、今、村尾さんがそんなに苦しい思いをされて覚悟もされていることを知り、びっくりし、少しも想像できなかった自分を恥ずかしく思いました。私は、「ファーラウト」には伺えないし(行かせていただいたことはありますが、日常的には無理です)、直接の貢献が何もできませんが、一読者として、「ジャズ詩大全」の末長い続巻をひたすら楽しみにしている一人です。資料集めや、音源チェック、原稿執筆・・・など、どれほどのご苦労かと思いますが、どうぞ何曲でも結構ですから、気になる曲ができた時は追加をしていってください。本当はリクエストしたい曲はいっぱいあります!!!1曲単位でもかまいません。村尾さんの本のような姿勢で解釈をしてくださる方は、よほど恵まれた方以外はめったにいらっしゃらないと思います。一人で趣味にしている人にも大きな希望です。見えない読者ですが、村尾さんの末長いご健康とご活躍をお祈りいたします。    ラーラママ 8/28/2010