スポーツニューズとは?
僕は新聞を取っていないし、テレビも昼間の大リーグ中継以外はほとんど見ませんから、テレビ・ニューズだけはできるだけ見るようにしています。あまりにも世間知らずになるのは恐いですから、まあニューズだけは見ます。だいたい店が終わって帰り、ニューズとスポーツニューズはセットになっていますから、スポーツニューズも見ます。スポーツは、政治やマスコミや芸能などどんなに腐りきっていても、まあそういうことに関係ない、今唯一の中立的で公正な事象と言えますから、純粋に楽しんで見ることができます。
スポーツとは本来そういうものです。よせばいいのに、僕は「スポーツ精神」なんていう本を書いたこともあります。それから、スポーツは見るだけでなく、テニスとかジョギングとか野球とか、必ずいつもなにかを僕はやっています。それはともかく、スポーツは、政治的、社会的な問題に関係なく、中立で公正で潔白な領域だという神話は、僕も信じたいです。最近チベットの自治に関していろいろ摩擦が生じて、北京オリンピックの聖火リレーを妨害するとか、開会式欠席を各国首脳が仄めかしたりとかいったことが取りざたされています。それでスポーツニューズを見ていたら、長嶋一茂さんが意見を求められて、「スポーツは、政治的な問題に関係なく、中立であるべきで、チベット問題と絡めて聖火リレーを妨害するなどということはやるべきではないと思います」と彼は述べていました。
しかしそれを聞いたとき、とうぜんの意見のように思えるのに、僕は賛成はできませんでした。スポーツの中立性はまったく正しいはずですが、僕はじつはそう信じてはいなかったんですね。自分でもこのときの反応が不思議に感じられました。いつのまに僕は正反対の意見を持つようになったんでしょうか? そしてなにゆえに? よく判りません。でも自分の気持ちははっきりしています。中国のやり方を支持する気には到底なれません。世界中がチベットを支援する態度で接してほしいです。スポーツ選手もスポーツファンもみなチベットを応援してあげてほしいです。それで僕は考えました。いつからこうなったのだろうか、そして、なにゆえにスポーツの中立性を放棄するべきなのか?
一番の原因は、スポーツそのものが変化したことにあります。これは僕の「スポーツ精神」という本のなかでも議論した大きな問題です。スポーツは1980年代あたりから急激に変わりました。すべての競技に観客が殺到し、その収益から賞金や出場料が支払われるようになりました。オリンピックも同様です。大きな大会ほど優勝者には多額の賞金が支払われます。学生のスポーツを除けば、いま金銭の授受がないスポーツはありません。つまりずべての競技が事実上プロ化し、もうアマチュアはいなくなったんです。だからスポーツはすべて金がかかっていて、あるときはスポーツ選手の生活そのものがかかっているわけです。サッカーでもシャツを引っつかんで放さないのはもう当たり前で、いつのまにか審判も反則を取らなくなりました。醜いことこの上ないですね。そこへいくと野球ではそういうことはないですから、まだいい方ということになるんでしょうか?
いやそんなことはどうでもいいです。いまスポーツは普通の人間のやるビジネスや生活と同じ次元のものになったんです。もしスポーツが、1960年代以前の金銭の授受がないアマチュア的性質を保持していたなら、スポーツの非政治性、中立性はまだ生きていたでしょう。またわれわれが皆でそれを保持しなくてはならなかったでしょう。しかしもうそんな神話はどこかへ吹っ飛んで久しいです。そんなものは笑い話しにしかなりませんが、笑い話しとしてももう面白くありません。スポーツはいま商売の一つですよ。それだけのことです。オリンピックでさえ同じです。すでに最初からスポーツの非政治性、中立性などという神話はないんですから、中国がオリンピックという大きなビジネスで経済的に政治的に儲けようとしていることに、誰かが異論を唱えても妨害しようとしても、とくにそれに反対する神聖な論理など存在しませんね。
チベットの正確な実情は僕は充分には判りかねます。従って両方の言い分を注意深く見守るしかありません。しかしチベットの言い分を門前払いにすることはできません。とくにスポーツが政治的、社会的に中立で公正で潔白だと言って、チベットの言い分を追っぱらうのは無理なことです。もしそう言うのなら、その前にスポーツを1960年代以前のものに戻してもらわなければならないです。そうなんです。スポーツは変化しました。もう政治的、社会的に中立で公正で潔白なスポーツなどどこにもないでしょう。われわれの生活も大きく変化しました。手弁当と自転車とラジオで動いていた開発途上国とその人々は、中国もそうですが、いまや車と冷蔵庫とテレビで生きています。すべてが変わったんです。
外国が批判すると、中国は内政干渉だと判で押したように言います。しかし、もう「内政干渉」という古典的な言葉は、この21世紀の世界にはありません。世界中の人々が地球という一つの坩堝に生きています。われわれは毎日中国製の食品を食べているし、中国人も日本製の電気製品など買っているでしょう。それらを作る人間、運ぶ人間、使う人間、処分する人間、すべてがお互いに関係を持っています。そういう人間たちはお互いに相手に関心を持っていて当然で、それを口に出すことも当然の権利です。そしてときにはそうすることが義務でもあるでしょう。しかもスポーツが政治的、社会的に中立で公正で潔白だった時代はもう遠くに去りました。オリンピックは大金が転げこむビジネスの一つです。ひどい言い方をすればオリンピックなどもうどうなったっていいんです。それよりチベットの自由、自治の方が重要です。
さて、こうは言うものの、僕がこの小文で言おうとしていることは、じつは北京オリンピックの聖火リレーや開会式のことや、チベット問題のことではないんです。いまわれわれにとって重要なのは、われら日本人のスポーツ観です。スポーツが政治的、社会的に中立で公正で潔白だった時代はもう過去のことです。長嶋一茂さんにはわるいんですが、そんな時代はもうずっと前の過去のそのまた過去のことです。いまやスポーツは大金を稼ぐ商売の一つになりさがり、どんな選手も20代後半あたりから選手生命の、ということは大金を稼ぐことができる年齢の、終わりを意識し始め、あせってあたふたし始めます。つまりこれが今のわれわれのスポーツ観です。厳密に言えば、変わったのはスポーツそのものではなく、人間のからだでもなく、やはり人間のスポーツ観、スポーツに対する考え方、感じ方全体でしょう。
われわれのスポーツ観をよく現しているものの一つは、スポーツニューズです。毎日、テレビのニューズのあとに、スポーツニューズがつづきます。それでキャスターでも、タレントでも、スポーツ解説者でも、近頃はズラーッと4、5人並べて総動員で、派手におっぱじめます。結論から言ってしまうと、このスポーツニューズが、近頃ではもう滅茶苦茶に腐っていていかれているんです。まあ僕も全部見ているわけではないですが、どこのテレビ局も右へならえでみな同じような内容のものを判で押したようにやりますから、結局全体に言えることです。やれ「反撃ののろし」だとか「選手会長(キャプテン、ジャパン代表)の××は」とか、陳腐な表現がつづき、またどのチャンネルもまったく同じことを言うのもすごいです。日本人の面目躍如とでも言うんですか、その画一性には目を瞠るものがあります。では僕が気のついたことを書いてみましょう。
その1。斉藤優樹くんが大学に行くかプロ野球に入るかでマスコミが沸いたことがありました。6チャンネルのスポーツ解説者は「絶対にプロ野球に行くべきですよ、僕もそうしましたから」と力説しました。最終的に優樹くんは静かに「まだ学ぶことがたくさんあるので、大学に進学します」と言って、進学しました。スポーツニューズも、われわれファンも、周囲のすべては、彼が自分の一生のもっとも大切な時期の進路を自分で決定するのを、口を出さずに静かに見守ってあげなければならなかったですね。しかしスポーツニューズは腐ってますし、スポーツ解説者もいかれています。脇にいてワーワーとはやし立てるタレントごときは、もう論外です。すべてみな金と名声にしか興味がありません。
スポーツが政治的、社会的に中立で公正で潔白だった時代はもう過去になり、いまやスポーツは大金を稼ぐ商売の一つになりさがったんです。ですからスポーツを20年やったところで、人間ができるわけではなく、スポーツで人格形成されるなんてこともありません。引退したスポーツ選手が解説者になり、彼らが言えることは「絶対にプロ野球に行くべきですよ、僕もそうしましたから」ぐらいなんでしょう。またスポーツ選手の日本語はどんどん落ちてきていて、従ってスポーツ解説者の日本語もどんどん落ちてきています。スポーツは人格形成の場ではないのです。しかし1960年代くらいまでの昔は、スポーツも人格形成の場であるか、あるいはそれと同等のものと、少なくともわれわれ自身や周囲や社会全体が考えていたんです。昔の野球選手である川上や大下の過去の言動を新聞やラジオで読んだり聞いたりすれば、彼らが一介のスポーツ選手でありながらどれだけの人格者だったかが判ります。それは西洋のスポーツ選手に関しても同じことが言えるでしょう。断っておきますが、僕は川上や大下が飛び抜けた偉人だったなどと言っているのではありません。彼らはある意味でたしかに偉人だったんですが、そうではなく彼らが立派で常識のあるどこへ出しても恥ずかしくない人間であって、30、40になれば、普通人と同じように、それ相応の人格をそなえ、18歳の男の子にもっとも適切な助言をしてあげられる、そんな人間だったと言っているにすぎません。
高校野球の中継放送もいかれてますけど、スポーツニューズの報道はもっと腐っています。その2。よく沖縄や辺鄙なところから来ている高校や、私立ではない公立高校などで代表になった学校などの、試合ぶりを報道するときに、スポーツニューズはこう言います。それが準決勝あたりで、あるいはその前で負けて、彼らを主人公にして悲しい物語りのようにつづります。「××県のどこどこの丘で歯を食いしばって特訓した成果も実らず、開会式で誓った決意も萎え、応援に故郷から駆けつけた地元ファンの期待も水の泡と消え、××高校の春(夏)の夢ははかなく散ったのでした」と、たとえばこんなふうに歯も浮くような安っぽい美辞麗句を、いつも決まり切った調子で並べて語られます。これが地元のいわゆるローカルテレビで報じられるのならまあいくらか理解できますけど、東京のテレビで全国版のスポーツニューズです。ではこういう場合、相手の勝った高校はどうすればいいんでしょうか? こういう語り口の中では、まるで悪いことをしたような、すまないことをしたような、そういう印象を視聴者だけでなく彼らに押しつけます。高校野球でもなんでもスポーツの勝敗は少なくとも公平で、誰でも遠慮なく勝っていいわけです。勝ってすまないなんてことはどこにもありません。スポーツニューズは必ずこういうふうに弱者を応援しているかのような姿勢を作って、その視点から脚色化して語ります。当然相手方は、そうとは言ってないけれど、この論理からは悪者になります。しかし悪者はどこにもいませんから、そもそも弱者を応援しているかのような姿勢から、すべてを脚色化して語ること自体が間違いです。むしろそう語る者の方が、悪者でしょう。弱者であれなんであれ、これでは依怙贔屓になってしまいます。
依怙贔屓が間違いなのは、スポーツニューズのなかでは当たり前です。しかもアマチュアの高校野球ですからなおさらです。なぜ公平に彼らを見つめてあげないのでしょう? それは主催者側も報道側も、できれば応援する側も、すべてが遵守すべき鉄則でしょう。そんなことすらできないのなら、そもそもアマチュアの高校野球なんてものをやる意味が最初からありません。スポーツニューズは、アマチュアの学生スポーツに対してそのぐらいの分別を持つことを、当然求められますね。スポーツニューズを作る側は、もちろん大人です。どこのティームにも温かい応援を送り、公平な目で報じなければならないのは、とくに言うまでもありません。沖縄や辺鄙なところから来たティームや、公立で代表になったティームなどに温かい応援を送るのなら、それはいいとしても、そういうティームを粉砕したティームにも同じように温かい目で接しなければならないですね。なぜもっと公平に、どこどこがどこどこに勝ちました、と淡々と勝敗を伝えるような視点から彼ら全体を見られないんでしょう? スポーツニューズなど騒ぐ問題じゃないと言う人もいるでしょう。確かに一見そうです。でもスポーツニューズがそんなふうに腐りきっているのなら、それをわれわれの子供たちは日々見て大きくなっていき、実際には学校教育などよりはるかに大きな影響をそれらからたまわり、成人していくわけです。そういう偏向をわれわれはほとんど止めることができません。
その3。よく4チャンネルでは巨人戦だけ大きく長く微に入り細にいり報じ、忘れたころ「その他の試合」と称してほかの5試合を短く簡単に、雑魚でも片づけるかのように報じます。最近巨人が下位に低迷しているからか、さすがにそれができないらしく、このパターンが崩れるときがあるようで、4チャンネルと巨人ファンにとっては大変残念なことでしょう。それと似ているのが、ビーチバレーの浅尾/西堀組と、バドミントンのオグシオ(小椋/潮田)組のスポーツニューズの扱いです。浅尾美和選手は人気が出ているらしく、コマーシャルにも登場しますし、オグシオ組もやはり美人だからか、とても人気が出ています。どちらの場合も、スポーツニューズではいきなり彼女たちが主人公で「××組は・・・」と始まり、「・・・1セット取られてしまいます。しかし・・・頑張って次のセットを取り返したものの・・・最終セットを取られて惜しくも3位に終わりました」といった調子で語られます。ときには5位だったりそれ以下のこともあります。もちろんたくさんの美辞麗句があいだに挟まっています。最初からほかの組は論外で、「なお、優勝したのは××組で・・・」などと優勝した組はわずかに最後におまけのように触れられ、運が良ければチラッと姿が映ります。世界大会などで、優勝した組が中国など外国のティームだったりするとまず映りません。よほど気をつけて見ていないと、優勝した組がどこか判らないで終わってしまいます。浅尾/西堀組とオグシオ組の勝敗を伝えるだけのニューズなんです。ビーチバレーにもバドミントンにも、ほかの組、ティームはたくさんいます。なぜ彼らのことも公平に伝えられないのでしょう? いやしくも報じるのなら、彼女たちより上のティームや選手をもっと詳しく報じるべきだし、優勝したティームはさらに詳述する価値があるんでは? スポーツニューズとはいえ、一応は報道番組のはずですが、なぜそんなことができるんでしょう?
ついでにもう一つ同じようなことを。ゴルフの石川遼くんは若くてハンサムで実力もあって頼もしいです。でも8チャンネルのスポーツニューズではやはり「最年少プロ・ゴルファー石川遼は・・」といきなり彼が主語で始まります。つまり「ゴルフの××大会が行われ・・」ではないんです。それで彼が才能のあるところを発揮して、美辞麗句で褒めちぎられ、紆余曲折ののち、最後は「しかし初日は+1で終わりました」などと報じて終わる。その最後の瞬間に下の方に1位から3位くらいまでの選手の名がちらっと出されて、話題は次に移っていくわけです。
2009年6月6日(土)の8チャンネルのスポーツニューズでは「石川遼は・・」と始まり、彼が40位に終わったことを報じ、他の選手にはついて費やした言葉はゼロでした。39位の選手は、20位、10位、5位、3位、2位、1位の選手は? どうでもいいんです。これはこういうスポーツニューズやそれを見る人が、石川遼のような人気選手にだけ関心があって、スポーツには関心がないことを意味しています。つづいて翌7日(日)の同じ8チャンネルのスポーツニューズは「石川遼は・・・」と始まり、ひどく調子が悪く、50位に終わったと報じていました。恐るべきことに、50位です。1位で優勝の五十嵐選手については名前は触れましたが、なにも画面に映らず、もちろん優勝談話もありません。まさに恐るべきスポーツニューズです。こういう場合、1位の選手がどんなに人気がなくても不細工でも醜くても、彼についてしっかりと存分に報道し、最後に「なお石川遼は50位に終わりました」としなければならないでしょう。そうすればこういうものを見て育ってくる子供たちに、本当のスポーツ観を植えつけてくれます。中立で公正で潔白なスポーツという概念です。
こういうスポーツニューズの腐敗した作り方はどこの局もほとんど同じです。他局の動向をつぶさに観察しているんでしょうか、それはそれは見事に右へならえで、やることなすことすべて同じです。大きなテレビ局がなんの独自性も持たず、判で押したように同じ内容のものを作っているのには、まさに薄ら寒い思いにさせられます。彼らは、われわれが生きている社会は、美人、ハンサム、若い、格好いい、金、名声、そういう価値観だけが通る世の中なのだと考えているらしいですね。
スポーツニューズは、残念ながら、腐敗しきっています。滅茶苦茶に腐敗していて、汚くて不潔と言うのがぴったりです。ほかに僕には適当な言葉が見つかりません。金銭や名声にしか関心がない打算的で安っぽい人間観(その1)を子供や若者に植えつけます。公平さを失った視点は、弱者を応援しているかのような虚偽の姿勢で(その2)救いがたい偏見や差別を助長します。公平さが求められる場面でも、好きなティーム、気に入ったティームだけを公然と贔屓して(その3)、それを当然と思うような厚顔無恥の厚かましさ、自己中心的で横柄な人間観を育てます。スポーツニューズは、打算、偏見、差別、依怙贔屓、厚顔無恥、横柄、こういった言葉で塗り固められています。とても残念なことですが、これらはみな事実です。そしてこういう茶番、横暴をテレビ局に許しているのは、突き詰めていくと、じつはわれわれ自身なんですよ。これを許容しているか、もしかしたら歓迎し求めているのは、われわれ自身なんです。それはスポーツそのものであり、またスポーツ選手であり、さらにスポーツファンたるわれわれなんです。スポーツニューズの悪は、その制作者だけでなく、スポーツ、選手、ファンのすべてが作っているんです。いま「スポーツは、政治的な問題に関係なく、中立であるべきで、チベット問題と絡めて聖火リレーを妨害するなどということはやるべきではない」と言える人は、たいへん残念なことですが、このわれわれの社会にはいないのではないですか?
08/5月校 09/6/8再校
吉村満さんからの投稿
SPORTSに政治的中立なし、その通りですね。この世界では、ルール作成or変更する力を持った国の思うままです。それは国際政治での大国のやり方その物です。例えば、メルボルン五輪・平泳ぎ古川勝、彼の優勝後は潜水禁止。ミュンヘン・田口信教優勝後、頭の一寸の水没は失格。これに因り、五輪優勝候補の高橋選手が国際戦の度イチャモン付けられ脱落。近くは鈴木大地・ソウル優勝後、バサロの潜水距離を制限。ミュンヘン優勝・男子バレーボール苦心の万化の速攻も、ワンタッチ+3打(4打)への変更ですっかり魔力を失い今日に至る。複合スキーやスキージャンプも同様にルールが変更され日本人は摘み出されれた感あり、デス。 事ほど左様に政治の力が働くのがスポーツでした、よくよく振り返れば。正直者の日本人が、スレッカラシ(地政学的にはそう成る世界に育って来たからしょーが無いかな)の白人達にどうやっていけば良いのでしょうか。悩ましい限りです。白人のjazzは嫌いではないんです。春日町のレデイデイで村尾さんのピアノ&vO何度か拝聴、亦ピアノの上の大全集をつまみ読みした事あり。 Make Me A Pallet On The Floor やBucket's Got A Hole In It のデキシーの詩を調べ様とインタネットに繋いでたら、ウッカリこのページに踏み込んで仕舞いました。どうも失礼致しました。2009/10/6
村尾陸男-----吉村さん、投稿ありがとうございます。こんなところへ迷いこむ人がいてくれて嬉しいです。そういえば、今年春頃に体操個人総合で数かずのメダルを取ってきた富田洋之選手についての番組を見ました。彼は世界体操選手権の個人総合で日本勢31年ぶりの優勝を果たしたんです。それで彼の吊り輪で、腹を下に向けてぶる下がり、体を水平に保つ技で、彼のからだは見事な水平を描きます。一方ルール改正で翌年だったかに優勝した中国選手のからだは、水平を維持できず、脚の方が醜く下がっています。でもこれはほんの一瞬のことで、競技者はどんどん先へ進んでいきますから、見ている観客もそこまで細かく気にしているヒマはありません。富田は美しさ、完璧さを追い求めるのに対して、世界のルールは技の美しさではなく、技の種類や難易度の方に関心を向けていきます。そして富田の世界制覇は終わってしまいます。ファン、ルール、スポーツ、そしてその背後で動く金、いろいろ考えさせられます。2009/10/7
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- by ジャズクラブFAROUT-ファーラウト-
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