マスコミの堕落

7月のご案内。

先だって共同通信の記者の石山永一郎さんから取材の申し入れがあり、彼にファーラウトに来ていただいて質問にお答えし、キャメラのかたも来て僕の写真を撮っていかれました。ジャズ詩大全が全22巻で一応完結したということで、それゆえの「時の人」というタイトルの記事にするそうで、まあ筋は通っているんですがどうも僕自身にはピンときません。僕のなにが「時の人」なんでしょうかね? こんなに実感のわかない「時の人」も珍しいかもしれないです。それで先週でしたかやっとそれが新聞記事になったと石山さんから連絡があり、また知人から東京新聞24日付け朝刊で僕の記事を見たという臨時ニューズみたいなメイルが飛びこんで来て、ほう、そうかいと、やっとそれが実を結んだわけでした。それはこんな内容です。

-----ジャズナンバーを翻訳した「ジャズ詩大全」全20巻を完結させた村尾陸男さん

 ギタリストとしてジャズの世界にのめり込み、1966年に、大学を中退して米国に渡った。「多少は自信があった英語がほとんど通じず、がくぜんとした」。帰国後はギターからピアノに転向し、実力を知った英語の勉強を真剣に始め、「詩の意味をどこまで理解しているかで演奏は全く違ってくる」と確信するようになった。90年、ジャズナンバーを斬新な日本語に翻訳した「ジャズ詩大全」第1巻を出版。古いレコード、雑誌など英文資料を徹底的に調べ、作品誕生の経緯から時代背景まで加えた解説も付けた。日本在住の米国人が「こういう本がほしかった。英訳したら」と「逆輸出」を勧めるほどジャズファンに支持された。
 以来、20年書き続けた同書は今春出た第20巻(他に別巻2)でようやく完結。ジャズ歌手、演奏家の必読書と言われるだけでなく、英語教材としても使われている。
 「大全」を読むと、恋愛から政治、哲学までジャズ詩のテーマの広さをあらためて知らされる。
 ジョニー・バークの47年の作品で、今も歌い継がれる「But Beautiful」の村尾訳は「でも、いいのさ」だ。「"しかし、美しい"は文脈からは誤訳。"美しい"という元の意味はここでは消えている」
 言葉にこだわりつつ、68歳の今も横浜のジャズバー「FAROUT」でプロとしてピアノを弾く。店名は「イカれてる」「すげえ」などの意味の俗語、もともとはジャズの前衛派を指す言葉だったという。北京出身。

今回は共同通信が記事を売ったというかたちなんでしょうか、よく判らないんですが、全国の多くの新聞に載ることになりました。宮崎日々新聞「ひと」6/16日、南日本新聞「かお」6/16日、新潟日報「きょうの人」6/16日、山陰中央新聞「顔」6/16日、琉球新聞「ひと」6/16日、佐賀新聞「ひと人」6/16日、京都新聞「時のひと」6/16日、高知新聞「ひと」6/18日、といった具合で、掲載はまだまだほかの地域で続くそうです。いやホントに不思議ですね。驚きました。僕は今までにもう何回か新聞記事になっています。記事というと大げさですが、まあちょこっと隅の方にコラムとして載っかるわけです。ジャズ詩大全関連では、日本経済新聞、東京新聞、朝日ジャーナル、赤旗などで、それ以外の著書でも東京新聞に載ったことがありました。それもほぼ1頁全面を割いて記事にしてくれたこともありました。だからといってそれで生活が向上するなんてことも特別ありません。

でもこんなにあちこちの地域に掲載されるのは、べつの意味で嬉しいですね。僕は東京とか都会を忌避しているところがありますから。なお北京出身というのは変ですね。北京が一時期でも日本の県だったというのなら判りますが、そうではなく、たんに北京で生れたにすぎません。ついでに言えば、生後すぐに日本に帰り、東京に少しいて四国へ行き10歳までいて、また東京に来て30歳まで生活し、以後はずっと神奈川ですから、どこの人間か、出身かと問われれば、30歳まで20年間過ごした東京の人間だというのが一番正確かと思います。東京を避けている東京人、まそんなところです。

ファーラウト代表 村尾陸男

6月ご案内
先日バンドマンたちと話していたら、「ジャズの店はどこも潰れそうだけど最近じゃジャズに関係ない店もみんな潰れそうだよ」なんて言ってました。依然として根強い不景気がつづいているようですが、一方で日本の海外資産が増加などと25日のニューズが報じていました。「底を打った」とかいう経済担当の大臣の発言はいったいいつから始まったんでしたか? いつまでたってもどこまでいっても「底を打った」を臆面もなくくり返すのは、政治家の特権なんでしょうかね。ここのところ「景気が上向き」などというニューズと惨憺たる不景気の実態とがせめぎあっていて、これは全然変わる気配がないです。とりあえず海外資産が増加などという遠くの数値よりも、われわれの周囲の悲惨な現実の方を信じるしか、庶民には選択肢がないです。これだけは確かで動かせないところですね。

また長らく日本人向けに焦点を絞っていた韓国の観光事業が、人数と落としていく金額とで日本人を超えた中国人に最近は全面的に方向転換したと、やはりニューズが報じていました。世界的不況のなかでは最近の中国は唯一の例外で、急激で大規模な経済成長が世界の経済地図を書き換えつつあります。これはホントに凄いの一言ですね。中国は台湾にミサイルをぶち込むなんて脅してきたわりには、そんなことする気配がないですし、香港もほぼそのまま存続させていますから、経済に力を注げば民主化路線をとらざるを得ないのかもしれません。もちろんこれは当然で歓迎すべきことなんですが、どうも僕はなにか違和感のようなものも感じてしまいます。周知のように社会主義、共産主義国家は過去に悉く経済破綻かそれに近い停滞を経験してきました。変な話しですが、社会共産主義国家と経済的繁栄はどうも似合いませんね。

だいたいが社会共産主義にあらゆる悪いイメージをつけたのは、20世紀のソ連でした。ソ連がいい例ですが、社会共産主義国家は強圧政権による締めつけでしか、国家を維持できない歴史を刻んできました。言うまでもないですが、強圧政権は自由選挙と相いれません。というわけで多くの社会共産主義国家はまるで世襲制かと言わんばかりの政権委譲をやってきています。まったく皮肉なもんで、社会共産主義とはどこまでいっても人間の手には届かない、絵に描いた餅のようなものだと言っているかのごとくです。きっとそうなんでしょう。社会共産主義国家の過去を振りかえれば、その態勢を維持できる要素は二つしかありません。一つは強圧締めつけ政権で、もう一つは極端な貧困です。いま共産主義態勢を維持できるのは、この二つの条件を満たしていなければなりません。僕が中国が危ないと感じているのは、中国がこの二つめの貧困を維持できなくなったからです。北朝鮮はまだこの二つをしっかり維持しているので、しばらくはつづくでしょう。しかし中国は共産主義国家の歴史上でも初めて貧困から脱しつつあります。いえ脱出どころか、中国は間もなく世界一の経済大国になるのではないでしょうか。

社会共産主義国家が世界一の経済的繁栄を謳歌する、これは人類が初めて経験する異常事態ですね。経済的繁栄はいいですが、懸念されるのは、中国の共産主義態勢がどうなるかということです。僕はその共産主義態勢が崩壊するのは、時間の問題ではないかという気がしています。僕がそう望んでいるわけではないですし、つづいていて欲しいと思っているんですが、そんなことには関係なく、おそらく流血革命などなしに底辺からなし崩しに壊れていくんではないでしょうか。なぜなら貧困が飛び去り衣食足りると、基本的には、人間は主義主張などどうでもいいからです。イギリスの評論家、哲学者ジョン・グレイJohn Grayは「21世紀は気晴らしdistractionの時代だ」と最近話題の本《Straw Dogs》で書いています。21世紀の人間は衣食足りて、いい車を買い、高級テレビやゲーム機を買い、旅行や買い物や遊びにうち興じ、映画にコンサートにスポーツ観戦に、どうやって時間を潰そうか気晴らしを見つけようかと、そんなことばかりに執心する、というわけです。

なにしろ今はテレビのチャンネルに買い物専用局があるのが当たり前ですから、それはかなり当たっていますね。ファーラウトのすぐそばの扇町1丁目のバス停にはいつも体格のいいホームレスの男が寝ています。彼は90キロくらいはありそうで、背も高く屈強な体躯です。その彼が小さなMP3かラジオのような機械を持っていてイアフォンでなにかを聴いています。今はホームレスでさえ衣食足りていて、気晴らしを求めている、そんな時代なんです。社会共産主義にとって苦難の時代だなんて思うのは僕の偏見かもしれず、だいたいどうでもいいことですが、でもなるほど気晴らしの時代だというのなら、音楽を聴かせる店が潰れるのはおかしいじゃないか、と僕は最近思ったりします。もしそうならそれは経営が下手だからであって不景気のせいではないだろうなんて、ここのところ僕は自分に言い聞かせています。気晴らしの時代こそ、ジャズじゃないかと・・・
  ファーラウト代表 村尾陸男


 先日、電車の中の週刊誌の吊り広告に目をやったら、酒井法子の子供が偽名を使ったとか、彼女に母親の資格なしとか書かれていた。そして家に帰って夜12時のニューズを見ていたら、彼女が介護の仕事に就く意思を示し、創造学園大にオリエンテーションを受けるため登校したところを映し、横から記者が質問を浴びせていた。また子供が学校へ行ったとか、行っても保健室にこもっているとか、そのほか子供に関する多くの報道が見られた。日本人のこういうときの興奮ぶりはまさにバッシングと言えるほど凄まじい。酒井法子の報道になると、日本人は狂ったように興奮し、ニューズも最初の方に大きくとりあげ、全体に緊張感がはしる。マリファナや覚醒剤にしろ、個人の使用は個人の問題で、他人にはほとんどなにも関係がない。少なくとも彼女は他人にこれといった迷惑はかけていないはずだ。それを社会に迷惑をかけたという感覚で大犯罪者扱いにする。マリファナや覚醒剤を売って商売をしたのなら、犯罪者扱いでいい。だが個人の使用は個人の問題で、社会は関与していないことだと理解しておかなければ、社会自体が下らないことに振りまわされるだろう。いやむしろ社会は最初からこんなことに関与すべきでないのだ。個人の薬物使用などまさに些末なことで、社会はそんなことに拘泥していてはいけないだろう。騒ぐのなら彼女に対してではなく、マリファナや覚醒剤を売って商売をしている犯罪者に対してである。
 オランダ、ベルギーではマリファナ喫茶店がある時代である。スペインではすべてのマリファナや覚醒剤や麻薬類の使用が合法化された。なにを服用しようと個人の責任でするべきことだというのだ。もちろん有名女優がそういうことをすれば、新聞やTVニューズの記事にはなるだろうが、小さく隅っこに載るだけで終わりだろう。アメリカですらたぶん同じだろう。こういった日本の報道で喜ぶ人たちは、彼女は子供たちにも顔を知られている有名人で、公的な立場にいるから社会的な責任がある、などと必ず言う。だが有名人もスターも人間であり、ときには犯罪も犯すしあれこれ窮地に陥りもする。それだけだ。相手が有名人やスターやタレントだから、われわれが彼らになにをしてもなにを言っても、彼らはそれに耐えなければならないわけではない。われわれは彼らを公平に扱わなければならず、こんなことで彼女を社会に迷惑をかけた犯罪者として扱うのは、むしろわれわれの犯罪である。
 こういう事態をもたらすのは、日本人がまだ個人の権利を理解していないからにほかならない。個人の権利がなんたるかを理解していれば、他の個人がマリファナや覚醒剤や麻薬を使用して破滅しようとしまいとどうでもいいし、少なくともそれはその個人の問題で、他の個人にとっては問題ではなく、つまり社会が関与すべき問題ではないと判るだろう。個人の選択の自由に関して日本人が良識をもっているならば、そういう選択の自由を保証してもらいたいと日本人個々人が思っているならば、他の個人の選択の自由をも尊重しなければならない。犯罪は許されざるものだとしても、他人の個人的自由に容喙するのは、個人的自由が理解できないと言っているようなものであり、それがゆきすぎればそれも一つの犯罪になるだろう。ましてや社会はその程度のことを理解していなければならないし、マスコミは社会の道標としてそれを理解していなければならない。
 彼女の子供のことなどもっと触れるべきでないし、マスコミは彼女の子供のことを根掘り葉掘り報道する権利すらないだろう。それこそ恐ろしい犯罪だ。彼女が犯罪者だとしても、それが彼女の子供をマスコミが記事にしてもてあそぶ権利を保障するわけではない。マスコミはその程度の良識も持てないほどに堕落している。堕落どころか、腐敗していると言った方がいいかもしれない。マスコミの腐敗は彼らが視聴率にしか関心がないからで、そういう記事を日本人大衆が望んでいるということをマスコミはよく知っていて、彼女だけでなく子供まで笑いものの対象にして大衆の好奇心におもねる。マスコミは堕落しているが、そうさせているのは日本人大衆である。美人スターの破滅を見るのが楽しく、警察に追いつめられていくのをドキドキしながら注視し、あげくはその子供の動静まで偽名を使ったなどと笑いものにし、彼女に母親の資格なしと言う。いま彼女に母親の資格なしと言える人間が、いったい日本にどれほどいるのだろうか? 彼女の子供を記事にしてもてあそぶマスコミと大衆のどこに、母親の資格を云々する資格があるのだろうか? 本当に不快でやりきれない思いにさせられる、そしていつも通りの、日本のマスコミと大衆の茶番である。2009/11/20

社会

このあいだ珍しくお客さんと音楽談義をやりました。プロのミュージシャンとしては、お客さんとはあんがい音楽談義はしにくいもんですね。音楽雑誌の記事とかで自分の意見をぶったり、どこかの教室で講義とかは簡単にできますけど、人と議論するのは骨が折れますし、それがお客さんとなるとさらに言いにくいです。でも先日ジャズでは誰が好きかと訊かれたもんですから、答えないのもおかしいので、バド・パウエルと答えたんです。するとなぜと訊かれたので、説明し始めました。当然ですが、これが話せば長いことになります。

僕は17歳くらいから30代初めまで、当時の日本人のありふれたパターンでビル・エヴァンズ一遍道でした。それが30半ばからパウエルを聞き始め、だんだんのめり込んでいって、気がついたらエヴァンズは聴かなくなっていました。もっと厳しい言い方をすると、まったく聴けなくなっていました。エヴァンズは病的なんですね。病的と言えば、パウエルも充分病的です。どちらも100%病んでいるんですが、パウエルは社会的には病んでいなくて個人的に病んでいるのに対して、エヴァンズは社会的にも個人的にも病んでいるように思えます。パウエルはどこまでも強く健康的ですが、身体的には病んでいたと思います。エヴァンズは弱く非健康的で、後年は身体的にも病んでいきます。

しかしここには、第二次世界大戦後のアメリカにおける、人種的、社会的な問題が関係していると、僕は思います。黒人には社会と戦う理由があったわけです。戦争中はいわば挙国一致体制であり、白人も黒人も一緒に戦ったので、社会的な問題を一時棚上げにすることができました。それがスウィング時代だったと言っても間違いではないでしょう。しかし終戦と同時に人種差別の厳しい現実が重く垂れてきます。黒人はまた元の悲惨な生活に戻らなければなりません。そこでスウィングはすぐに過去のものとなり、バップとそれに連なる<モダン・ジャズ>の時代が来ます。黒人はそこに悲哀、暗さ、苦悩、怒り、否定を表現しようとします。それは社会との戦いを意味していました。白人もジャズに入ってきた人たちは、同じように苦悩や怒りや否定的なものを表現しようとしました。しかし彼らの場合はどうもそこに必然性がありません。

バップや<モダン・ジャズ>には、過去の時代への否定か、否定とまでいかなくても見直しのようなものが大きな契機として含まれていました。マイルズ・デイヴィスの音楽や当時のモダン・ジャズがフランス映画に引っ張りだこになったのも、そういう理由です。既存の社会への否定は黒人にとって大きな権利であり義務でもあり、いわば必然だったわけです。しかし白人のジャズ・ミュージシャンには既存の社会への否定はどこかで自己矛盾を引き起こします。既存の社会とは、彼ら白人の社会であり、彼らの出自でもあるからです。ですから60年代に入ると、白人のジャズ・ミュージシャンは大きく分けて二つに分かれていきます。一つはスウィングの延長で、悩みなど一切なし、底抜けに明るくてアメリカ社会礼賛派です。もう一つはそれができない社会否定派です。問題なのはこの社会否定派です。

白人で、自分たちの既存の社会を否定すると、それは最終的には、家族や親戚や、村落共同体や、自分たちの所属やそれらが作る秩序の一切に対して、否定的な態度を取らななければならなくなります。それは彼らのなかで大きな矛盾とならざるを得ません。しかしそれでも否定的な態度を取る人はたくさんいました。代表的な人たちはスタン・ゲッツ、アート・ペッパー、ビル・エヴァンズでしょう。彼らは最終的には怒りのやり場がなくなり、三人ともひどい麻薬中毒になります。とくにひどい社会的矛盾に挟まれて身動きがとれなくなるのは、後者二人です。ペッパーはほかにも悪いことをたくさんしでかし、刑務所と娑婆の往復生活になります。彼の《Straight Life》という自伝は、こういう白人ジャズ・ミュージシャンの不可解で病的な立場をよく表現していて、最高に面白いです。マイルズ・デイヴィスの自伝も面白く読めますが、べつに驚きません。しかし《Straight Life》は驚きとショックの連続で、ジャズ・ミュージシャンの自伝としては断然抜きんでています。

ビル・エヴァンズの音楽には、彼の弱さと不健康さと、アイデンティティ喪失による不安感が横溢しています。初期のものは純粋に音楽的な探求に没頭できているので、聴く方もそういう視点で聴けば楽しく勉強になります。しかし中後期は、彼のなかで、音楽が必然性を欠いていき、疑問や否定や戦いの対象が不分明になっていきます。それは彼のレコードのあらゆるところに出ていますから、聞き間違えるようなことはありません。バド・パウエルとビル・エヴァンズでは十年ほどの世代の違いがありますから、まったく同列に論じることはできません。パウエルも50年代末から60年代は完全に病んで、ほとんど音楽になりません。生きた屍(しかばね)そのものです。しかし彼らが音楽界に切り込んでくる時代の、彼らの精神と社会的な態度、姿勢には似たものがあり、また比較することもできると思います。

さてバド・パウエルに没頭していった僕は、40ぐらいのときにパウエルの [クレオパトラ] などをレコードからコピーしました。[クレオパトラ] で彼は3カ所ぐらい大きなミスをしています。隣の鍵盤を一緒に弾いてしまったりとか、明らかな間違いです。でもそれはコピーしてみて初めて判ることで、レコードを聴いているとまったく気づきません。なにしろ素晴らしい演奏で、彼は興奮しまくっていますし、聴くものだれもが圧倒されてしまいます。同じレコードのほかの曲では、AABA-32小節のところ、あるコーラスだけ40小節やっています。コピーしてみて判ったんです。どうしてもそこだけ40小節あるんです。それでそこを何度も何度も聴いてみてやっと判ったのは、Bへ行くべきところをパウエルがもう一回Aをやっているので、ベースのポール・チェインバーズが2、3小節いったところでウッと詰まって止まり、2、3拍休んで気を取り直してAをやりそれから合わしてBへ進んでいる事実です。チェインバーズが詰まって止まっていなかったら、僕にも判らなかったかもしれません。つまりパウエルはそこだけAを3回やりBAといき、そのコーラスだけ40小節やるという素人みたいなポカをやったわけです。

でもそのレコードは彼の演奏のなかでも最大の名盤と言われていて、僕もそれに異存ありません。まさにその通りです。僕も何度も何度も聴きました。今でも聴いていて退屈しません。しかし本当のところ彼の演奏はいたるところ間違いだらけです。そこで僕は考えこんでしまいました。どうしてこれほどまでに雑で乱暴で間違いだらけの彼の演奏が素晴らしいのか? そしてエヴァンズの演奏がひどいとは言わないものの、あの繊細で美しく完璧とも言える非の打ち所もない演奏が、どうして僕には聴けなくなってしまったのか? いったいどうやってこれを説明すればいいのか? その頃毎日毎日このことを考えました。それで到達した答えは、それを説明しうるものは唯一「精神」しかないということです。

音楽は精神であり、また精神的態度である、ということです。そこには明るくたくましく強く戦っている精神があるように思います。それはある意味では、1950、60年代のジャズと現在のジャズとの違いをも説明してもいるでしょう。50、60年代のジャズはいまどれを聴いてもなにか惹きつけられる強い魅力を持っていますが、現代のジャズ・ミュージシャンがすごい技術で卓越した演奏を聴かせても、そこには当時のような飢えたどん欲でしたたかな精神がかけているからか、どうも惹きつけられる魅力が感じられません。今という時代が、飽食の時代だからなんでしょうか? 飢えもなければどん欲さもなく、技術の誇示以外に演奏がなんら必然性をもたず、精神も精神的態度もとくに必要ないからかもしれません。話し始めると全部明確に説明し終わるまでは、僕はやめられません。この程度でもとてもすべて説明しきったとは言えませんし、舌足らずで不十分な解釈と言われても仕方がないでしょう。でもこういうことを考えることは重要ですね。みなさんもいい演奏を聴いてこういう点について考えてみてください。


このあいだ1937年の [They All Laughed] などジョージ・ガーシュウィンが最後の方に書い曲を調べていて、あれこれ厚い参考書をひっくり返していましたら、ジョージはラヴェルやシェーンベルクなどとつきあっていて、彼らの名前があちこちに出てきます。それで少し逸れてラヴェルのことを書いたものを読んでましたら、驚きの事実が指摘されていました。ラヴェルは1932年にタクシーの事故で、頭を打つんです。それで最初はたいしたことないと思われていたものが、どうも段だんと悪化していったようで、5年ほど廃人同様の生活をして37年に亡くなってしまいます。ところが昨年4月8日のニューヨークタイムズに載った記事では、どうもラヴェルの病状は自動車事故の結果ではないかもしれないと言うんです。彼は1928年53歳の時にすでに前側頭葉損傷認知症(frontotemporal dimentiaの拙訳ですがどこまで正しいか判りません)にかかっていた可能性がある、とその新説は指摘しています。その年彼は有名な [ボレロ] を書きますが、彼にしては単調なあの繰り返しの多い曲調はその認知症ゆえだと言うんです。これにはまさにビックリです。

確かに [ボレロ] はほかの彼の曲とはかなり違っていて、僕も聴くたびになにか不思議な印象を持たざるを得ませんでした。つまり事故はほんの偶然で、本当の死因は認知症の進行だと言うんです。もちろん本当かどうかはもう判りませんけど、事故のあとの最後の5年間は植物人間のようになってしまって、よく謎のように言われてきましたから、そうだとすると辻褄が合います。それは事故以前の彼の神経科での診断記録などを洗いなおしてみて出てくる、論理的な帰結だと記事は言います。同時期に書かれた [左手のためのピアノ・コンチェルト] にも同じような兆候が見られると・・・いやいや面白いですね。興味津々です。しかしやはり死因は事故で認知症ではないという説もあります。ラヴェルの晩年は判らないことが多いです。まあこういった研究がこれからもっとなされていくんでしょう。僕なんか期待に胸が膨らんでしまいます。

ジョージ・ガーシュウィンはラヴェルにもストラヴィンスキーやシェーンベルクにもレッスンを申し込んで、悉く断られたということは以前書きました。でもラヴェルとはニューヨークのクラブへ一緒にジャズを聴きに行ったりしてます。シェーンベルクとも親しいつきあいをしていたようです。シェーンベルクは、アインシュタインもそうでしたが、1933年にヒトラーが政権を取ったときにナチドイツから逃げ出してアメリカに来ます。彼はUCLAキャリフォルニア州立大学ロスアンジェルス校に教職を得て、36年にはLAに住んでいました。ガーシュウィン兄弟ももっぱら映画に音楽を書いていたので、ハリウッドに住んでいて、近かったのでシェーンベルクとは親しくしていました。ジョージはテニスが好きで、自分のコートを持っていて、36年にはシェーンベルクとよくプレイしました。できないときでもシェーンベルクにコートを貸したりしていました。

彼らは音楽的な相違を超えてつきあっていたんですが、たった一度だけそれが浮かび上がったことがありました。あるときジョージはシェーンベルクの弦楽4重奏のコンサートに行き、翌日テニスのときに二人の話しは前日のコンサートのことに及びました。そこにいあわせたピアニストのオスカー・レヴァントの話しによると、ジョージが「僕もいつか弦楽4重奏を書きたいな、でもモーツアルトみたいに単純なものだけど」と言ったんです。するとシェーンベルクはジョージのいつもの気ままな発言を自分の作品への批判ととったらしく、「僕は単純な人間じゃあないよ。それにモーツアルトだって彼の時代には単純にはほど遠かったろうよ」と言いました。

そのジョージは37年1月あたりから激しい頭痛を感じ始めます。2月11、12日のLA交響楽団との演奏では、倒れそうになり、しかもゴムが焦げるような匂いを感じたと述べています。彼の脳腫瘍は進行していきます。今だったら放射線治療かなにかで死なずにすんだところでしょうが、当時はどうしようもなっかったのでしょう。そして最後の1、2ヶ月は意識もなく、7月11日に亡くなります。ここらへんは彼の伝記映画『アメリカ交響楽』にも描かれていました。ところで植物人間だったラヴェルも、たぶんジョージの死なども判らずにでしょうが、この年12月28日にパリで亡くなります。奇しくも1937年は音楽界の巨星が二つ落ちた年になりました。


数日前に韓国のインターネット事情について報道番組が伝えていました。韓国のブロード・バンド普及率は非常に高く、そのためにネット犯罪も高度になってきていると言うんです。全国に支店網を造りネットで注文を受けて配達するやり方で大成功した花屋さんが、ある日大量の注文やアクセスが殺到してサーヴァーがパンクしてしまいました。でもそれは調べてみると意図的な破壊工作で、たぶん競争相手の花屋かどこかが"業者"にやらせたようです。しかも脅迫電話がかかってきて「金を払え、さもなくば事業はおしまいだ」みたいなこと言います。よくよく調べると、その破壊工作は中国のどこかからなされていて、脅迫電話は韓国人の声なので、韓国のだれかが中国の業者にやらせたようです。すると警察権が及ばないですから、韓国の取り締まりはなにも手出しができません。しかもこういうものは必ずネットカフェのようなところから発信されています。

もう一つの例では、検索順位を上げる業者がどこかから依頼を受けると、そのURLにアクセスをするウィルス・ソフトを大量にばらまいてどこそこ構わずに送りつけ、そのウィルス・ソフトがURLにアクセスをし、それでアクセス数が増えてそのURLは検索順位のトップに躍り出て、業者は収入を得るというわけです。もちろんそのアクセスは嘘で、なにも意味を持ちません。前例もそうですが、これも発見すること自体非常に難しく、取り締まりは困難を極めます。また時間もかかり、取り締まりも後手に回ってしまいます。ようやく突き止めた頃には、犯人は消え失せているかもしれません。しかし日本でもそう違うわけではないです。日本のなにか悪徳サイトを取り締まろうとしたら、それがアメリカやカナダのプロヴァイダーから立ち上げているということが判って、なにもできなかったという話しも聞きました。彼らは日本語が判らないし、顧客が何人だろうと金さえもらえればそれでいいわけです。

インターネットは国際的な通信網で国境がないですから、そもそもこういうことは不可避のことです。僕は店のも含めて4つもアドレスをもっていてHPにも出していますから、合計で500以上の内外からくるゴミメイルを僕は毎日捨てています。それで捨ててはいけないメイルを捨ててしまうということも何度もやっています。それらのメイルには日本語や英語でセックスの勧誘やヴァイアグラを買えなどと書かれていますね。またミクスィのようなアメリカの交友サイトでは、セックスの相手を求むなどと堂々と書かれています。それも本名ではなくバンドル名でやりとりして、匿名性に守られていますからできるんでしょう。

近ごろは個人情報を守るとか尊重するとか言って過剰に神経質になってますが、それは必ず両刃の剣となり、個人情報を秘匿することからくる匿名性は道徳や社会規範を一気に破壊します。科学の進歩とともに人間社会も確かに進歩してきましたが、それで人間も進歩しているとわれわれはなんとなく思ってやってきました。でも人間はもしかしたら進歩どころか退歩しているのかもしれません。つい20年くらい前までわれわれは個人情報も匿名性もとくに気にすることなくやってきたんですが、そういう向こう三軒両隣的、相互監視体制のような社会がじつは人間の堕落を防いでいたとも言えます。人間はどこまでいっても弱く愚かですね。個人情報秘匿と匿名性は人間の抑制を取り除いてしまい、悪いことを好き放題にやる自由を与えてしまうんでしょうか?

従って、インターネットでどこかになにかを書きこむ、あるいはメイルを送るといった作業には、パスやIDカード(身分証明書)を提示することを義務づける時代が間もなく来るのではないですか? 僕はまじめにそう思っています。名前と住所の上半分ぐらいまでと写真を画面上に提示するようなカードです。それをパソコンに挿入して初めてインターネットとメイル機能は使えるというようなシステムです。それが厭な人はいままで通り手紙と電話ですませばいいんです。それはプロヴァイダーが発給し、プロヴァイダーもときにはライン業者もそれにたいして責任を負うことになります。どうぞ犯罪に使ってくださいと言っているようなプリペイド携帯電話を業者が売って儲けだけ手にし、あとのことは責任を負わないなどというビジネスが許される方がおかしいんです。インターネットもメイル交換も、プロヴァイダーもライン業者も、なにも例外ではありません。自分の家のパソコンであっても、IDカードをパソコンに差し込んで仕事をする、残念ながら僕には、そんな時代が間もなくやってくるような気がします。
4/14/2009